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2018
04.12

超高層ビルのあけぼの

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表紙

霞が関ビルの計画から竣工までを子供向けに解説した本である(文献 1)。

子供向けだが、大人が読んでも十分読み応えがある。子供向けということもあって、写真や図が多く掲載されているのが良い。構造が専門でも当時の状況を知らない人であれば「へぇー」と思うであろうことが書かれているので以下に紹介しよう。

目次にある章タイトルは以下の通り。

はじめに
1 なぜ超高層ビルをたてるのか
 東京という大都会
 太陽と緑をとりもどせ!
 九階から三十六階まで
2 超高層ビルは地震がきてもなぜ倒れないか
 木造建築と五重の塔
 鉄とセメントの登場
 地震とたたかうビル
3 台風や火事になぜ大丈夫か
 風速八十二・五メートル
 燃えないビル
 煙にまかれるしんぱいのないビル
4 工事がはじまった
 設計とは.....
 基礎工事
5 鉄骨をつくる
 まっかな鉄がきたえられる
 H型鋼について
 いろいろな実験
 加工工場で
6 鉄骨が立ちはじめる
 鉄骨の組み立て
 トビのおじさん
 モノを上へあげるということ
7 作業のすすめ方
 パート手法
 じぶんであがるタワー・クレーン
8 床をつくる
 デッキプレートのはなし
 コンクリートをうつ
9 地震と火事からまもるために
 耐火被覆
 耐力壁
10 上棟式まで
 いよいよ高くなった
 第九交響曲
11 どうして人を運ぶか
 急行エレベーター
 分割区間エレベーター
12 完成に向かって
13 超高層ビルのあけぼの
あとがき おとなの方々へ

霞が関ビルの技術的トピックスと言えば、H 形鋼の柱、ハニカムビーム、「キ」の字ユニット、スリット耐震壁、といったものが挙げられる。この本でのそれぞれの言及箇所をざっと拾ってみよう。

まずは、H 形鋼の柱について。

 強震計の記録にもとづく、電子計算機のこまかい計算が、くり返し、くり返し、行われた。そして、英語の H の字の形をした、H 型鋼がよかろうと、その形がきまるのにも、長い時間が必要だったのです。

... H 型でなくても、ビルは、たちます。ビルの柱になる鉄骨は、□こういうかっこうの四角な柱でもよいし、+こういうかっこうの、十字型でもよいのです。だが、どれがいちばんよいか - というこになると、いろいろくらべてみなければなりません。

... H 型鋼は、□型や+型、にくらべて、つなぎ目に使うボルトの数が少なくてすむのです。こうしたことも、超高層ビルの場合、ひじょうにたいせつなのです。

現在はボックス柱が主流だが、当時の技術状況だと、総合的に見て H 型柱に軍配が上がったようだ。図には、幅 427、せい 478、ウェブ厚 40、フランジ厚 60の H 型鋼が描かれている。

「H型鋼」と書いているのはちょっと面白い。これはこの本に限らず当時の文献ではそうなっている。いつから「H形鋼」と書くのが主流になったのだろう?

ハニカムビームについては以下。

 梁は、軽くて丈夫なものにするために、95 ページの図のように、穴のあいたものにするときまりました。すなわち、H 型鋼をこのように、デコボコに切っていきます。そのデコボコの、つき出た方、つまりデコ、の方を溶接してつなぐと、六角形の穴があいたことになります。

... この梁は、ハニカム・ビーム(有孔梁)と呼ばれています。この穴の形は、なにかに似ていませんか。そう - ミツバチの巣にそっくりです。だから、英語のハニカム(ミツバチの巣) - ビーム(梁)という名で呼ばれるのです。

この後に、ハニカム・ビームは、軽量で強度が大きくてしかも穴にはダクトまで通せるといったことが書かれている。また、光弾性実験の応力分布図の写真が章扉に何気なく掲載されている。

「キ」の字ユニットについては以下。

 いままでのビルだと、ビルをたてる現場で、柱と柱を、まず立てて、その柱の間へ、けたばりを、ボルトで、あるいはリベットという鋲で、とりつけるのが、ふつうです。つまり、右と、左の、二か所で、とりつけることになります。

 しかし、霞が関ビルの場合は、加工工場で、あらかじめ、柱の中心として、カタカナの「キ」の字のまん中の棒をまっすぐにしたような形に、けたばりをとりつけてしまいます。この「キ」の字を、二つあわせると、けたばりが、できます。

 すなわち、けたばりの、まん中の、一か所だけつなげばよいということになります。おわかりでしょうか。ふつうのビルなら、二か所でつなぐ作業をしなければならないのですが、霞が関ビルでは、一か所つなげばよいだけになります。

 三十六階ものビルをたてるのですから、現場でする作業を、できるだけ少なくしないと、たてるのに時間がかかりすぎるのです。十階のビルをたてるのに、一年半かかるとすれば、霞が関ビルは三十六階あるのですから、約四倍の六年ちかくかかる勘定になります。そんなにかかっては、たまりません。二年半でたてなければなりません。


これは藤森照信氏の講演で伺った話だが、桁梁が二段(二重梁)になっているのは柱で H 形を採用したことに関係がある。武藤清は H 形柱の弱軸、強軸をどちらに向けるべきかかなり悩んだそうで、梁間に向けたり桁に向けたり何度か変更したそうである。桁梁を二段にすることでようやく現在の向きに落ち着いたのである。

スリット耐震壁については以下。

... 大きな地震がきたとき、このビルの鉄骨は、固有周期が、約五秒ですから、倒れないけれどもゆらゆら、ゆれます。あまりゆれると、これはだれでも気持ちがわるい - それを、あまりゆれないように、地震の力を、この壁に、ある程度、ひきうけさせてしまおう、というのが、耐力壁の考え方です。

そこで、どんな壁であればよいか - この壁は、おそろしくつよいだけでも困るのです。おそろしくつよくて、力を加えると、バリンと、おせんべいを割ったようにこわれる壁だと、そのショックで、まわりの鉄骨に、大きな力を与えてうごかしてしまいます。上の階と下の階の鉄骨に、ちがった力が加えられ、バランスが狂ってくるのです。

上の方の階で、そういうことになると、柱が、ゆがむかもしれないのです。ばか力だけつよくても、困るというわけです。だからといって、むやみによわいと、少しの力でこわれるし、地震力を、やわらかくうけ流すことに、なんの役にもたちません。

そうなると、つよすぎもしない、よわすぎもしない、いってみれば、ねばりのある壁をつくるのがいいということになります。そこで、いくつもスリット(すきま)がはいった壁を、つくることになりました。スリットは、ゆとりといってもいいかもしれません。

つまり、地震のものすごい力でゆさぶられたとき、そのすきま - スリットがあるおかげで、そのすきまが、ゆさぶられるだびに、ちぢまったり、ひろがったりして、地震の力をすいとってしまうのです。

... 壁は壁でも、ただの壁ではない、ただ防火に役にたつだけではない、大地震のときに、じょうずににこわれて、地震の力が、鉄骨にまで及ぶのを防ぐばかりか、上の方へ伝わろうとする地震の力を、おとろえさせてしまう役目をする、まことに、たいせつな壁だということになりましょう。

高層建築の先達として、五重塔について触れている部分が結構ある。以前の記事で、武藤清は霞が関ビルの設計の際に五重塔を参考にしたとは言っていないという藤森照信氏の談話を紹介した。

だが、そのようなことを知らずにこの本を読むと、「霞が関ビルには五重塔の技術が生かされているんだ」と思ってしまうような書き方がされている。かなりの注意力と洞察力のある人なら以下の文を見逃さないかもしれない。

ビルは、塔ではない - 中の広さといい、高さといい、塔とくらべれば、問題にならない大きさです。

大部分の人はこの部分はさらりと読み進めて記憶に残らないのではないだろうか。記憶に残るのは、霞が関ビルと五重塔とはよく似ているといったイメージの方ではないだろうか(それが間違っているわけではないが)。

また、五重塔については以下のような記述もある。

 いちばん高い、京都・東寺の塔は、高さが五十六メートルですから、丸ビルより、なんと二十メートル以上も高い - が、これも倒れたことがありません。しかも、ぜんぶ、木でできているのです。考えてみると、これは、すばらしいことです。

 私たちの祖先は、むかしから、ちゃんと、地震にもこわれない方法を、しかも、木造建築で、考えていたのです。


だが、文献 2 には、五重塔の耐震性が高いのは昔の大工が意図的に耐震的に作ったからではなくて、たまたまそうなっただけであろうと書かれている。そこまでの慧眼であれば、風で吹き倒されないように配慮するはずだし(四天王寺の五重塔は1934年の室戸台風で倒壊して木端微塵になった)、法隆寺金堂の軒も垂れることはなかったはずだという意見である。梅村魁氏も同意見であったとして以下のように書かれている。

この本を書くために、耐震工学の大先生でいらっしゃった梅村魁先生の講演を調べていたら「五重塔などでも地震に強くあろうとして、ああいうものができたのではなく、たまたまああいうふうな地震に対して、ひじょうに有利な構造ができあがっていた」という一節があり、意を強くしました。

「超高層ビルのあけぼの」を読んでいて他にも気になったことがないではない。霞が関ビル以前の「高さ31m 規制」の背景についての説明である。景観の保護と耐震性に配慮しての規制と書かれているが、文献 3 には、規制の第一義は、通風や採光の確保、(耐震も含まれるがもっと総合的な意味での)都市防災にあったと書かれている。耐震性に配慮してというのは、後年関東地震が起こった際に付与された後付けの理由である。

この本はずっと以前に古本屋でたまたま見つけて購入したものである。この本の題名とよく似た「超高層のあけぼの」という映画があるが、おそらくそちらの方が有名だろう。

残念ながら筆者はまだ映画の方は見たことが無い。ただ、当時の建築業界をよく知る人たちの間ではあまり評判がよくないらしい。何でも「H 型鋼」や「柔構造」は霞が関ビルの建設において発明されたかような描かれ方になっているらしい。実際に視聴して裏を取っているわけではないので、又聞きをこれ以上書くのはやめておこう。機会があれば、この映画も見てみたい。

参考文献

  1. 武藤清 岩佐氏寿 : 少年の科学 超高層ビルのあけぼの 鹿島研究所出版会 昭和43年

  2. 坂本功 : 木造建築を見直す 岩波新書 2000年

  3. 竹山謙三郎 : 高さ100尺制限と震度0.1はどうして決ったか 建築雑誌 75、1960年





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2017
02.28

武藤清の死亡記事

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昔は図書館や図書室で本を借りる時は、図書カードに名前と日付を記入したものだ。今ではすっかり見なくなってしまったが、筆者はこの図書カードが結構好きだった。

図書カードに自分の名前を記入する時は、何だか自分の知的領土を拡張したことを宣言しているような誇らしい気分になったし、自分の思い入れのある本のカードに友人や先生の名前を見つけるのはちょっとワクワクするような経験であった。図書カードを使用したことがない人でも、自分と興味の対象が近い人を発見した時になんだか嬉しくなる感覚は理解してもらえるのではないだろうか。

今これに近い楽しみが得られるのは、古本屋で入手した本を開く時くらいである。「何でこんなところに線を引くかな?」と気に障るようなことも無い訳ではないが、前の持ち主の描いた落書きや書き込みが意外に面白かったりすることもある。

これまで筆者が見たものを挙げれば、「...は容易に示される」という文に取り消し線が引かれて「大変困難なため示すことは不可能」とわざわざ書き直してあった工学書や、よほど講義内容がつまらなかったのかクラスメイトと思しき人の横顔がデッサンされた材料力学の本などがある。

このブログで何度か採り上げた武藤清、二見秀雄共著「趣味の構造力学」も古本屋で購入したものだが、前の持ち主はこの本を溺愛していたようで、書き込みは一切なく新品と変わらないほどきれいな状態に保たれている。

表紙裏の見開きページには、新聞記事の切り抜きが3つ貼ってあって、それがどれも武藤清に関するものである。どの記事にも日付が律儀に書き込まれており、前の持ち主は余程几帳面な人だったことが伺える。

以下にその中の一つをを示そう(携帯で撮影)。これは、武藤清の死亡記事(平成元年三月十三日の朝日新聞)である。

art148_fig2.jpg


写真で全部写すのは問題があるかも知れないので一部のみにして、内容を書き写したものを以下に示しておく。

「柔構造建築」生みの親 武藤清氏が死去

日本最初の超高層・霞が関ビルを設計した「高層建築の生みの親」東大名誉教授、武藤清(むとう・きよし)さんが十二日午前八時半、急性心不全のため、東京都新宿区******の自宅で死去した。八十六歳だった。葬儀・告別式は十七日午後一時から文京区大塚五ノ四〇ノ一の護国寺桂昌殿で。喪主は妻芳子(よしこ)さん。

茨城県取手市生まれ。東大建築科に在学中、関東大震災にあい、一九三五年(昭和十年)に東大教授に就いてから、本格的に耐震構造や地震工学の研究に取りくんだ。六三年に発足した「国際地震工学会」の初代会長。

木造の五重塔が地震に強いことに着目して地震エネルギーを吸収する柔構造理論を打ち出す。コンピューターによるシミュレーション法を開発し、東大を定年退官して鹿島建設副社長をしていた六八年には、三十六階建ての霞が関ビルを設計した。八三年、文化勲章を受章。

「霞が関」で常識破る
建築家・黒川紀章さんの話
地震の多い日本の建築界で、高さ四十五メートルが限度だった剛構造から、柔構造による高層建築への転換は、大変大きな決断だった。武藤さんは、単に机上の理論ではなく、様々な分野の見解をまとめあげ、現実社会の中で問題を解決した画期的な構造計画家だった。霞が関ビルの出現は、それまで「台風と地震の多い日本は特殊な地域」という認識を一変させ、日本建築界の国際的飛躍のきっかけになったと思う。

当時は個人情報保護とかの意識は皆無だったのか、上記の******の伏字の箇所には実際の住所が書かれている。現代的には問題があるかも知れないので、調べればすぐ分かることだと思うが伏字としておきたい。

さて、これほど大事にされていた「趣味の構造力学」はなぜ前の持ち主の手を離れてしまったのだろう?思い当たるのは、前の持ち主が余程金銭に窮したか、亡くなったかのどちらかである。几帳面な人だったようなので、後者の可能性の方が高いように思える。

遺品を整理していた家人がこの本のタイトルを見て絶句したシーンが思い浮かぶ。趣味の構造力学??力学が趣味なんて.... さっさと処分しましょ、とこんな感じであっさり売り払われてしまったのではないだろうか。



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2015
10.06

余談の余談(零戦から鷲津久一郎まで)

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前回書いた"撃墜王"こと坂井三郎氏の左旋回の話は、飛行機の本をたくさん書いておられる加藤寛一郎氏の「飛行の秘術のはなし」で読んだと記憶している。これも書き写して引用しようと思って本棚を捜したが、見当たらない。この本だけでなく飛行機関連の本が何冊か見当たらないのである。

そういえば、二年ほど前に零戦映画が話題になった頃、映画を見た知人が零戦について熱く語ってくるので、「飛行の秘術のはなし」などを見せて、"左捻りこみ"の説明が出ていることを教えたところ、それらの本を貸してほしいと持って行ってしまったのであった。

その本には、加藤氏が坂井氏を自宅に招いて零戦の飛行法について聞き取りをする話が出ていたと記憶している。二人でソファーに並んで座り、坂井氏がレクチャーする。加藤氏は、操縦桿の位置やその時のパイロットの体勢を実際に確認しながら説明を受ける。「ここで左旋回」と坂井氏が体を左に倒せば、それを真似て加藤氏も体を左に倒す。うろ覚えだが、確かそんなことが書かれていたと思う。

背面飛びでの説明に及んで、二人がソファーの上で逆さまになって合計四本の足を宙に上げたところに、お茶を持った加藤氏の御令室が戸を開けて入ってくる。この場面は結構笑えるのだが、あまりによくできているので、「ドラマ化でも狙って話を作っているのでは?」と(失礼ながら)思ったほどである。

ところで、加藤氏が企業を辞めて助教授として赴任した先で、これから飛行法(飛行術だったかな?)の研究をしたいと話すと、その研究室の教授が床を踏み鳴らして大激怒したそうである。その教授が誰であろう鷲津久一郎大先生なのであった。曰く「そんなものは、定年後に田舎の大学にでも行ってやれー。」(うろ覚えなので、表現は不正確かも)

鷲津久一郎と言えば変分原理(エネルギ原理)、変分原理と言えば鷲津久一郎である(Hu-Washizuの原理が有名)。夏目漱石の三部作ではないが、「エネルギ原理入門」「弾性学の変分原理概論」「Variational Methods in Elasticity and Plasticity」を鷲津の「変分原理三部作」と筆者は勝手に呼んで崇めている。

先日は鷲津久一郎の本の脚注について書いたが、上記の二番目の本の脚注では、鷲津久一郎自身が犯した学問上の誤りについて触れられている。これを読んだ時は「鷲津久一郎のような人でも間違えるのか」と少し安心したと同時に、そんなことを正直に書いておられることに心から敬服してしまった。



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