2017
02.28

武藤清の死亡記事

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昔は図書館や図書室で本を借りる時は、図書カードに名前と日付を記入したものだ。今ではすっかり見なくなってしまったが、筆者はこの図書カードが結構好きだった。

図書カードに自分の名前を記入する時は、何だか自分の知的領土を拡張したことを宣言しているような誇らしい気分になったし、自分の思い入れのある本のカードに友人や先生の名前を見つけるのはちょっとワクワクするような経験であった。図書カードを使用したことがない人でも、自分と興味の対象が近い人を発見した時になんだか嬉しくなる感覚は理解してもらえるのではないだろうか。

今これに近い楽しみが得られるのは、古本屋で入手した本を開く時くらいである。「何でこんなところに線を引くかな?」と気に障るようなことも無い訳ではないが、前の持ち主の描いた落書きや書き込みが意外に面白かったりすることもある。

これまで筆者が見たものを挙げれば、「...は容易に示される」という文に取り消し線が引かれて「大変困難なため示すことは不可能」とわざわざ書き直してあった工学書や、よほど講義内容がつまらなかったのかクラスメイトと思しき人の横顔がデッサンされた材料力学の本などがある。

このブログで何度か採り上げた武藤清、二見秀雄共著「趣味の構造力学」も古本屋で購入したものだが、前の持ち主はこの本を溺愛していたようで、書き込みは一切なく新品と変わらないほどきれいな状態に保たれている。

表紙裏の見開きページには、新聞記事の切り抜きが3つ貼ってあって、それがどれも武藤清に関するものである。どの記事にも日付が律儀に書き込まれており、前の持ち主は余程几帳面な人だったことが伺える。

以下にその中の一つをを示そう(携帯で撮影)。これは、武藤清の死亡記事(平成元年三月十三日の朝日新聞)である。

art148_fig2.jpg


写真で全部写すのは問題があるかも知れないので一部のみにして、内容を書き写したものを以下に示しておく。

「柔構造建築」生みの親 武藤清氏が死去

日本最初の超高層・霞が関ビルを設計した「高層建築の生みの親」東大名誉教授、武藤清(むとう・きよし)さんが十二日午前八時半、急性心不全のため、東京都新宿区******の自宅で死去した。八十六歳だった。葬儀・告別式は十七日午後一時から文京区大塚五ノ四〇ノ一の護国寺桂昌殿で。喪主は妻芳子(よしこ)さん。

茨城県取手市生まれ。東大建築科に在学中、関東大震災にあい、一九三五年(昭和十年)に東大教授に就いてから、本格的に耐震構造や地震工学の研究に取りくんだ。六三年に発足した「国際地震工学会」の初代会長。

木造の五重塔が地震に強いことに着目して地震エネルギーを吸収する柔構造理論を打ち出す。コンピューターによるシミュレーション法を開発し、東大を定年退官して鹿島建設副社長をしていた六八年には、三十六階建ての霞が関ビルを設計した。八三年、文化勲章を受章。

「霞が関」で常識破る
建築家・黒川紀章さんの話
地震の多い日本の建築界で、高さ四十五メートルが限度だった剛構造から、柔構造による高層建築への転換は、大変大きな決断だった。武藤さんは、単に机上の理論ではなく、様々な分野の見解をまとめあげ、現実社会の中で問題を解決した画期的な構造計画家だった。霞が関ビルの出現は、それまで「台風と地震の多い日本は特殊な地域」という認識を一変させ、日本建築界の国際的飛躍のきっかけになったと思う。

当時は個人情報保護とかの意識は皆無だったのか、上記の******の伏字の箇所には実際の住所が書かれている。現代的には問題があるかも知れないので、調べればすぐ分かることだと思うが伏字としておきたい。

さて、これほど大事にされていた「趣味の構造力学」はなぜ前の持ち主の手を離れてしまったのだろう?思い当たるのは、前の持ち主が余程金銭に窮したか、亡くなったかのどちらかである。几帳面な人だったようなので、後者の可能性の方が高いように思える。

遺品を整理していた家人がこの本のタイトルを見て絶句したシーンが思い浮かぶ。趣味の構造力学??力学が趣味なんて.... さっさと処分しましょ、とこんな感じであっさり売り払われてしまったのではないだろうか。



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2015
10.06

余談の余談(零戦から鷲津久一郎まで)

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前回書いた"撃墜王"こと坂井三郎氏の左旋回の話は、飛行機の本をたくさん書いておられる加藤寛一郎氏の「飛行の秘術のはなし」で読んだと記憶している。これも書き写して引用しようと思って本棚を捜したが、見当たらない。この本だけでなく飛行機関連の本が何冊か見当たらないのである。

そういえば、二年ほど前に零戦映画が話題になった頃、映画を見た知人が零戦について熱く語ってくるので、「飛行の秘術のはなし」などを見せて、"左捻りこみ"の説明が出ていることを教えたところ、それらの本を貸してほしいと持って行ってしまったのであった。

その本には、加藤氏が坂井氏を自宅に招いて零戦の飛行法について聞き取りをする話が出ていたと記憶している。二人でソファーに並んで座り、坂井氏がレクチャーする。加藤氏は、操縦桿の位置やその時のパイロットの体勢を実際に確認しながら説明を受ける。「ここで左旋回」と坂井氏が体を左に倒せば、それを真似て加藤氏も体を左に倒す。うろ覚えだが、確かそんなことが書かれていたと思う。

背面飛びでの説明に及んで、二人がソファーの上で逆さまになって合計四本の足を宙に上げたところに、お茶を持った加藤氏の御令室が戸を開けて入ってくる。この場面は結構笑えるのだが、あまりによくできているので、「ドラマ化でも狙って話を作っているのでは?」と(失礼ながら)思ったほどである。

ところで、加藤氏が企業を辞めて助教授として赴任した先で、これから飛行法(飛行術だったかな?)の研究をしたいと話すと、その研究室の教授が床を踏み鳴らして大激怒したそうである。その教授が誰であろう鷲津久一郎大先生なのであった。曰く「そんなものは、定年後に田舎の大学にでも行ってやれー。」(うろ覚えなので、表現は不正確かも)

鷲津久一郎と言えば変分原理(エネルギ原理)、変分原理と言えば鷲津久一郎である(Hu-Washizuの原理が有名)。夏目漱石の三部作ではないが、「エネルギ原理入門」「弾性学の変分原理概論」「Variational Methods in Elasticity and Plasticity」を鷲津の「変分原理三部作」と筆者は勝手に呼んで崇めている。

先日は鷲津久一郎の本の脚注について書いたが、上記の二番目の本の脚注では、鷲津久一郎自身が犯した学問上の誤りについて触れられている。これを読んだ時は「鷲津久一郎のような人でも間違えるのか」と少し安心したと同時に、そんなことを正直に書いておられることに心から敬服してしまった。



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2015
09.21

独創的なアイデアが生まれるとき

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堀越二郎の「零戦」で採りあげたい二つ目は、「剛性低下方式による操縦応答性の改良」と呼ばれるものについてである。ここでも、それまで常識とされていた規定を覆す堀越の慧眼ぶりが見て取れる。

これは、零戦の操縦性を改良するために行われた独創的な工夫なのであるが、それを理解するには、当時の航空機には舵を動かす油圧系統やアクチュエーターなど無かったことをまず知っておく必要がある。パイロットは機体の動きをコントロールするのに(特に高速飛行時には)大変な腕力が必要だったのである。言わば、操縦桿と舵は直結していた。そういった世界での操縦性の話である。

これは余談になるが、零戦を駆って"撃墜王"と呼ばれた坂井三郎氏が敵機に攻められた際に常に左旋回で逃げたのは、プロペラのジャイロモーメントが有利に働くという以外にも、氏の利き腕が右手であった(操縦桿を左に倒しやすい)ということがあったそうである。

零戦の操縦性の問題が持ち上がったのは、テスト飛行を終えたパイロットの報告からであった(第三章 試験飛行 「不審な振動」)。

この日の飛行試験と、いままでの飛行試験全般を総合して、二つの大きな問題点がクローズアップされた。それは、「振動は、脚を引っこめても減らない。昇降舵の効き、重さは、低速では九六艦戦とよく似ているが、速度を出すにつれ、操縦桿をすこし動かしても、目立って重すぎ、効きすぎとなる。」という点だった。

この後者の操縦性の問題に堀越は以下のように挑んでいった。

昇降舵の手ごたえの問題は、振動の原因を研究しているあいだも、つねに私の頭の中にわだかまっていた。十七日、十八日の飛行試験の結果でも、あいかわらず高速になるほど昇降舵の手ごたえが堅くなり、ちょっと操縦桿を動かしただけで、機が大きく反応することが決定的になった。

この高速で昇降舵が効きすぎるという問題は、高速の戦闘機なら例外なくある問題のはずである。ただ、世界中の設計者とパイロットが、それを問題として意識しないだけだ。この問題は、世界に先がけて、ぜひ私の手で解決してみたい。私は、九六艦戦での経験を思いおこし、根本的に解決してやろうという意欲が湧いた。

中略

いままでのどんな飛行機の操縦系統でも、操縦桿の動きと舵の動きの割合は、低速・高速にかかわらずつねに一定のものであった。その構造は、操縦桿と舵とが、金属の管やレバーや、細い針金をよりあわせたケーブルなどでつながれており、操縦桿を動かすと、それに応じて舵が動くメカニズムになっている。

そして当時は、これら操縦系統の各部分は、いずれも伸び縮みが少ないように、つまり高い剛性をもつように規定され、設計されていた。つまり、飛行機の速度が変わり、舵に加わる空気力が変わっても、操縦桿の動きに対する舵の動きがあまり変化するのはいけないとされていた。そのため、低速でほどよい効きをみせる昇降舵でも、高速では効きすぎて飛行機の姿勢がガクンと変わる。

中略

問題を整理してみると、操縦桿を同じだけ動かしても、速く飛ぶときは昇降舵が少ししか動かず、遅く飛ぶときは、昇降舵が大きく動くようにし、しかも最低速と最高速の間のどんな速度で飛んでも、その速度にふさわしい動きを示してくれればいいわけだった。これを実現するものとしてすぐ頭に浮かんだ原理は、速度の高低を圧力の高低に変え、その圧力で操縦桿と舵の動く角度との割合を速度に応じて変えるというものだった。しかし、その最後の段階のかんたんで確実なメカニズムが見つからず、私の思考は、はたと行きづまってしまった。


苦しみながらも考え続ける堀越に、とうとう飛行機の神様(?)が降りてくるのである(第三章 試験飛行 「思いがけぬアイデア」)。

ある日、会社の机の上でだったか、出社途上の電車の中でだったか記憶にないが、ふと、「操縦系統の弾性を利用できないだろうか」という考えが頭に浮かんだ。

中略

操縦系統に、たわみや伸び縮みが起こりやすくすれば、つまり剛性を低くすれば、「飛行機が高速になる→舵の面にあたる空気力がふえる→操縦系統にかかる力がふえる→操縦系統のたわみや伸び縮みがふえる→操縦桿を大きく動かしても舵はふつうより小さくしか動かない。低速になると、この反対の現象が起こる。」

私の頭の中で、このような一連の連想が瞬時に起こった。ただ、この方法を用いると、操縦系統の伸び縮みのため、たとえば舵の効きに遅れが出るのではないかということが、とうぜん疑問となる。しかし、つごうのいいことに、金属など固体の伸び縮みが、一方のはしから他のはしまで伝わる速さは、目にもとまらないほど速いから、この心配はしなくてよい。「これはうまい!」思わず、私は心の中で叫んだ。

ここから、規定、規格への疑い、それについての独自の考察が示される。

私は、この昇降舵の操縦系統に剛性低下を採用することに、はたして実害があるかどうか、検討してみた。(中略)そもそも、操縦系統の剛性の最小限を決めた規格ができたのは、九六艦戦ののちのことである。なぜそのような規格が作られたのか、その理由について説明を聞いたことはないが、考えてみると、羽布張り機に舵の効きの悪い飛行機が多かったのは事実だ。

しかし、羽布張り機では操縦系統をささえる土台がしっかりしていなかったため、舵の角度を必要なだけとれないことが、操縦系統そのものが伸び縮みするためだと見えたのではなかったか。そして、このたびの規格も、その対症療法として生まれたのであろう。ほかにどう考えても、この規格の出てきた理由は考えられなかった。「よし!こうなれば十二試艦戦ではこの規格を無視してもふつごうはあるまい。」私はひそかに決心を固めた。


規定や規格は、その時代の技術レベルが反映されているので、本来は技術の進歩とともに見直されるべきこともあるはずだが、時間の経過とともに規定のそもそもの背景は忘れ去られてしまっていることが多い。

これは建築構造でも同じだろう。以前学生の頃に、コンクリート構造の権威である先生が、「この設計式がどのように決まったのか私も知りません。知っている人がいたら教えて下さい。」と言われるのを聞いてひどく驚いたことがある。「あなたが知らなかったら誰が知っているというんです!」と心の中でつぶやいた次第である。

堀越のアイデアやその成果は、日本の航空技術のレベルを(少なくとも戦闘機では)世界の最先端にまで一気に引き上げたようである。以下は、イギリスの航空エンジニアから見た評価(終章 昭和二十八年八月十五日)。

イギリス最大の航空機会社ホーカー社の計画設計主任 J・W・フォザード氏はイギリス航空学会誌一九五八年十一月号のなかで、「ヨーロッパ人は、日本人が模倣に終始したように思いたがるが、日本の代表的飛行機である零戦の詳細を知れば、それが誤りであることをさとるであろう。(中略)なかでも、われわれヨーロッパの水準から見て、もっとも驚嘆にあたいする工学上の構想・手法は、操縦系統の剛性を計画的に引き下げる考えであろう。この独創的構想によって、低速時の昇降舵の効きをそこなわずに、高速時の操縦桿の動きを適当に増し、むずかしい操縦感覚の問題をみごとに解決している。」

と、最大級の賛辞が与えられている。



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