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2016
10.26

夭折の天才 ワルター・リッツ

Category: 科学者伝
スイスのシオンでリッツ(Walter Ritz)が生まれたのは、レイリー(Lord Rayleigh)の The Theory of Sound Volume 1 が出版された翌年の 1878 年である。レイリーは 1842 年の生まれであるから、リッツの生まれた年にレイリーは 36 歳であったことになる。

レイリーの伝記によると、レイリーは決して頑健ではなかったようで、肺病や熱病といった生命の危機に瀕するような病気を何度も経験しているが、それでも 77 歳までと随分長生きをしている。

一方、リッツは結核のために 1909 年に 31 歳の若さで亡くなっている。その人生は余りに短く、リッツ法を始めとする彼の業績の全ては"若き晩年"の成果である。

以下に示すリッツの略歴は、末尾に示す参考文献(参考サイト)などを参照しながら書いたものである。少なからぬ意訳も含まれていると思うので、より正確な内容についてはそれらを直接参照願いたい。

リッツは幼少のころから理数系科目で人目を引く才能を示していたようだ。だが残念なことに、その才能は病気がちな体質と共に天から与えられたものだったようで、常に病気と隣り合わせで勉学や研究に取り組まなくてはならなかったようである。

リッツが初めて呼吸器系疾患に見舞われたのは 19 歳のときである。これは山での事故に遭遇したことが心理的、肉体的に影響したとのことである。少なくともリッツ自身はそう思っていたようだ。文献 1 には以下の記述がある。

リッツは友人らとのプルーラール登山の折、新雪上を崖下に滑落するグループを振り向き様に目撃した。その時の心的外傷は、肉体的に過剰で過酷な救出作業によってさらに悪化した。

Climbing Mont Pleureur with friends, he looked back to see a group of them slip on fresh snow and plunge over a cliff, the emotional stress was compounded by physical overexertion and overexposure in the rescue efforts.


そのようなことがあったものの、リッツはその年(1897年)の秋にチューリッヒ連邦工科大学の入学試験にパスしてエンジニアになるべく工学部への入学を果たした。

工学部に入ったもののすぐに理学部へと転部して理論物理学を専攻している。文献 1 によると、健康問題がコース変更の表向きの理由だったとのことである(表向きでない理由は何だったのだろう?)。

そのコースの一学年先輩にはあのアインシュタインがいた。リッツが 1878 年 2 月生まれ、アインシュタインが 1879 年 3 月生まれなので、アインシュタインの方が一つ年下である。なのにアインシュタインが一年早く入学というのは本当だろうか?

これについて少し別の資料にも当たってみたところ、どうやら間違いではないようである。例えば、ノーベル賞公式サイトのアインシュタインの説明ページには以下のような記述がある。

... in 1896 he entered the Swiss Federal Polytechnic School in Zurich to be trained as a teacher in physics and mathematics.

当時のチューリッヒ連邦工科大学には、ミンコフスキー(Hermann Minkowski)を始めとする数学、理論物理学分野の有名な学者が多く在籍していた。リッツとアインシュタインは同じコースに所属していたので、大体同じ教授たちを先生に物理や数学を学んだようである。

二人に対する教授陣の評価は、リッツの方が上だったようである。文献 2 には以下のような記述がある。

チューリッヒ連邦工科大学でリッツの与えた印象はアインシュタインを凌ぐものであった。ミンコフスキーはアインシュタインを「のろまな犬」と評したと伝えられるが、リッツはミンコフスキーの推薦でゲッチンゲンのヒルベルト(David Hilbert)の下へと赴いているのである。

Ritz had made a better impression at Zurich than Einstein. For example, while Einstein was reportedly described by Minkowski as a "lazy dog," Ritz went to David Hilbert in Gottingen with amicable words from him.

その後、リッツとアインシュタインは、光の伝播に関して相容れない理論を構築して学問上対立することになるのであるが、それについてはまた後日。。。


参考文献

  1. Encyclopedia.com(Free Online Encyclopedia) Home > People > Science and Technology > Physics: Biography > Walter Ritz

  2. Alberto A. Martinez : Ritz, Einstein, and the Emission Hypothesis, Physics in Perspective, vol. 6, No. 1, p.4-28, 2004.




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2016
10.07

レイリーとリッツ

Category: 科学者伝
レイリー・リッツ法の歴史を振り返る前に、レイリー(Lord Rayleigh)とリッツ(Walter Ritz)の簡単なバイオグラフィーを書いておこう。

レイリーのバイオグラフィー的資料については、比較的詳しく書かれたものを見つけるのはそう難しくはない。例えば、ティモシェンコ(S. P. Timoshenko)の History of Strength of Materials では、レイリーのために一節が割かれていて("69. Lord Rayleigh," p. 334 - 339)、レイリーの略歴と業績についてコンパクトに纏められている。

もっと詳しいものを The Theory of Sound 内に見つけることもできる。1945年にアメリカのドーバー社から出版された The Theory of Sound には、冒頭に Robert B. Lindsay による Historical Introduction が収録されている。

これがなかなかよく書かれていて、読み応えのある内容である。レイリーのバイオグラフィーや研究業績についてだけでなく、同書に関係する分野の歴史についても触れられている。

ちなみに、The Theory of Sound の初版は 1877 年にマクミラン社から出版されている。上記の Historical Introduction は、もちろんこちらには出ていない。筆者が見ているのは、ドーバー社の The Theory of Sound であり、副題に Unabridged Second Revised Edition With An Historical Introduction By Robert B. Lindsay と付いたものなのでご注意を。

日本語で書かれたものでは、筆者の知る範囲で最も詳しいのは寺田寅彦の書いた「レーリー卿」である。これはウェブ上にも公開されているので閲覧は容易である。これを読めば、ちょっとしたレイリー通になれるほど内容は濃いものになっている。

ティモシェンコがレイリーの略歴を書くにあたって参照しているのが、レイリーの息子の Robert John Strutt が書いた John william Strutt, Third Baron Rayleigh である。筆者はこの本の内容については未確認なのだが、寺田寅彦もやはりこの本を参照したことを「レーリー卿」の末尾で断っている。

「バイオグラフィーを書いておこう」と書いておきながら、寺田の「レーリー卿」を読み直しているうちにその気もだんだん失せてしまった。筆者による焼き直しよりも上記の資料などを直接参照してもらう方が余程良いかと思われる。

仕方ないので(?)、レイリーの生きた 1842 年から 1919 年(19世紀半ばから20世紀前半)がどのような時代であったかを(科学史ではなく一般社会の歴史について)補足しておこう。

1842 年と言えば、イギリスが中国(清)相手にアヘン戦争に勝利した年である。19 世紀後半はイギリスが中国やインドといったアジア地域を植民地化していった時期にあたる。日本は幸い欧米列強による植民地化を免れたが、大政奉還、倒幕、明治新政府の樹立、廃藩置県といった大転換を余儀なくされたのは歴史の時間に習った通りである。

司馬遼太郎氏が明治初めの混乱期を描いた「翔ぶが如く」には、西郷隆盛らとも親交があったとされる印象的なイギリス人駐日通訳官(外交官?)アーネスト・サトウが登場する。このサトウが生まれたのがレイリー誕生の次の年で、亡くなったのがレイリー没年の 10 年後なので、二人の生きた時期は概ね重なっている。

幕末には薩摩藩や長州藩がイギリスに密かに留学生を派遣したり、維新後にはイギリスから多くの「お雇い外国人」を招いて科学技術の指導を仰いだりしている。レイリーの亡くなった1919年は、日本も参戦した第一次世界大戦が終わりベルサイユ条約が締結された年であるが、日本の参戦は1902年に締結された日英同盟が背景にある。

このように日本とイギリスは浅からぬ関係にあったのだが、残念ながらレイリーはと言うと、日本との接点は殆どなかったようである。手近な資料にあたっただけであるが、幾つか目を通してレイリーの日本絡みの話題は僅かに一つ見つかっただけであった。もっと手広く探せばまだあるのかも知れないが。

レイリーについては以上。リッツについてはまた後日。。。


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