2017
11.14

ティモシェンコは退屈な先生だった?

Category: 科学者伝
EERI から出ているハウスナー(G. W. Housner)のインタビュー記事(文献 1)では、ハウスナーが学生の時に直接教えを受けたティモシェンコ(S. P. Timoshenko)とフォン・カルマン(Theodore von Karman)の講義の様子が語られている。

以下がその部分(p.4 "Stephen Timoshenko : Made a Big Impression")で、インタビュアーは、スコット氏(Stanley Scott)である(拙訳と原文)。

ハウスナー : 教授たちの中で私が特に感銘を受けたのはティモシェンコでした。ティモシェンコはその頃ミシガン大学にいて、私は彼の講義を二つ取りました。一つは弾性論、もう一つは板とシェルの理論の講義でした。ティモシェンコと他の教授達とでは力量の差がはっきりしていました。

スコット : ティモシェンコといえば、アメリカ工学界、いやヨーロッパ工学界でも重領だったんですよね。

ハウスナー : ええ、ティモシェンコは大御所でした。彼は1920年代、ロシア革命後にアメリカにやって来てウエスティングハウス研究所で 2、3 年働いた後、ミシガン大学に移りました。

第二次大戦が終わるまでアナーバーにいて、その後スタンフォード大学に移り、そこに長く居ました。今 UC バークレーにいるポポフ(Egor Popov)は、ティモシェンコのスタンフォードでの博士課程の学生の一人でした。ティモシェンコはスタンフォードを退職後、スイスに戻って娘と暮らしました。

テイモシェンコはアメリカにかなり否定的な印象を持っていました。聞いた話では、ティモシェンコがアナーバーにいた頃に学生がやって来て彼の部屋をノックしたそうです。「どうぞ」と言うと、その学生は毛糸の帽子を被ったまま入ってきて、部屋の中でも帽子を取らなかった。それでティモシェンコは、自分は未開人と暮らしているという思いを強くしたようです。そしてそのような蟠りが消えることは無かったようです。

スコット : ティモシェンコの授業はどうでした?

ハウスナー : とても面白かったですよ。アナーパーの他の誰よりもその科目では徹底しているように見えました。その後カルテックではフォン・カルマンの講義を取りましたが、二人の違いは際立っていました。

ティモシェンコは「黒板の芸術家」とでも言えるような人でした。彼は教室にやって来て話をし、ずっとそれを黒板に書き付けました。何もかもがきっちりと完壁に進んで、ちょうど講義が終わる頃に黒板が埋め尽くされるのです。

それとは対照的に、フォン・カルマンが黒板に書くものは全く整理されていませんでした。後で分かったんですが、ティモシェンコのやり方は難しさを隠してしまったものでした。全てがすっきりしていたんです。

フォン・カルマンは難しいことの方に主眼を置いていました。フォン・カルマンの講義の方が私にとっては断然勉強になりました。彼は私たち学生に自分自身で課題を検討する術を教えてくれたわけですから。

Housner : The one professor who did make a big impression on me was Professor Stephen Timoshenko, who was then at Michigan, and I took a couple of courses from him. One was on the theory of elasticity, and the other the theory of plates and shells. It was clear that Timoshenko was of a different caliber from the others.

Scott : Timoshenko was a major figure in engineering in the U.S., and also in Europe, I believe.

Housner : Yes, he was a major figure. In the 1920s, after the Russian Revolution, he came over to the United States and got a job at the Westinghouse Research Laboratory for a few years, and then went to the University of Michigan.

He stayed at Ann Arbor until after World War II, and then he moved to Stanford University and was there for quite a number of years. Egor Popov, now at UC Berkeley, was one of his Ph.D. students at Stanford. When he retired from Stanford, he went back to Switzerland and lived with his daughter there,

Timoshenko had a very dim view of America. The word was that one winter day in Ann Arbor a student came to his office and knocked on the door. "Come in." The student came in wearing a stocking cap, which he did not take off when he entered. That episode seemed to have convinced Timoshenko he was in with barbarians, and he apparently never got over that feeling.

Scott : What were Timoshenko's classes like?

Housner : They were very interesting, and looked at the subject more rigorously than the others at Ann Arbor did. Later on, when I was at Caltech, I had a couple of courses from Theodore von Karman, and found the difference between the two really striking.

Timoshenko was what you would call a "blackboard artist." He came to class and talked, and all the time put it on the board. It all went neatly and perfectly, until just at the end of the hour he would get to the end of the board.

In contrast, what von Karman would put on the board was rather disorganized, I realized later that Timoshenko's approach was one in which he concealed the difficulties-everything he presented was smooth.

Whereas von Karman emphasized the difficulties. Intellectually, I was much more influenced by von Karman, who taught us more how to think about a subject on our own.

教壇に立つティモシェンコとフォン・カルマンにそれを聴くハウスナー。何とも豪華な光景である。。

ティモシェンコファンを自任する筆者にとって、上記のハウスナーの話は「半分ショック、半分納得」である。

半分ショックなのは、筆者がティモシェンコの講義を受けても、退屈するか理解できずに着いていけないかあるいはその両方と思われるからである。筆者は、全部を教え込まれる講義よりも、興味深い話を一つでも聴かせてくれる講義を好む方である。

半分納得なのは、あれだけ高度な内容の本を多く出しているくらいだから、講義もそりゃ進むだろうと思われるからである。ティモシェンコの本に目を通している時など、ティモシェンコは本当に一人だけだったのだろうかと思えてくることがある。少なく見積もっても ティモシェンコは10 人くらいいたと考えるのが自然である。まぁ、天才というのは常人とは桁がいくつも違うということなんだろうけど。。。


参考文献

  1. Earthquake Engineering Research Institute. Connections, the EERI Oral History Series : G. W. Housner, Stanley Scott interviewer 1997





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2016
10.26

夭折の天才 ワルター・リッツ

Category: 科学者伝
スイスのシオンでリッツ(Walter Ritz)が生まれたのは、レイリー(Lord Rayleigh)の The Theory of Sound Volume 1 が出版された翌年の 1878 年である。レイリーは 1842 年の生まれであるから、リッツの生まれた年にレイリーは 36 歳であったことになる。

レイリーの伝記によると、レイリーは決して頑健ではなかったようで、肺病や熱病といった生命の危機に瀕するような病気を何度も経験しているが、それでも 77 歳までと随分長生きをしている。

一方、リッツは結核のために 1909 年に 31 歳の若さで亡くなっている。その人生は余りに短く、リッツ法を始めとする彼の業績の全ては"若き晩年"の成果である。

以下に示すリッツの略歴は、末尾に示す参考文献(参考サイト)などを参照しながら書いたものである。少なからぬ意訳も含まれていると思うので、より正確な内容についてはそれらを直接参照願いたい。

リッツは幼少のころから理数系科目で人目を引く才能を示していたようだ。だが残念なことに、その才能は病気がちな体質と共に天から与えられたものだったようで、常に病気と隣り合わせで勉学や研究に取り組まなくてはならなかったようである。

リッツが初めて呼吸器系疾患に見舞われたのは 19 歳のときである。これは山での事故に遭遇したことが心理的、肉体的に影響したとのことである。少なくともリッツ自身はそう思っていたようだ。文献 1 には以下の記述がある。

リッツは友人らとのプルーラール登山の折、新雪上を崖下に滑落するグループを振り向き様に目撃した。その時の心的外傷は、肉体的に過剰で過酷な救出作業によってさらに悪化した。

Climbing Mont Pleureur with friends, he looked back to see a group of them slip on fresh snow and plunge over a cliff, the emotional stress was compounded by physical overexertion and overexposure in the rescue efforts.


そのようなことがあったものの、リッツはその年(1897年)の秋にチューリッヒ連邦工科大学の入学試験にパスしてエンジニアになるべく工学部への入学を果たした。

工学部に入ったもののすぐに理学部へと転部して理論物理学を専攻している。文献 1 によると、健康問題がコース変更の表向きの理由だったとのことである(表向きでない理由は何だったのだろう?)。

そのコースの一学年先輩にはあのアインシュタインがいた。リッツが 1878 年 2 月生まれ、アインシュタインが 1879 年 3 月生まれなので、アインシュタインの方が一つ年下である。なのにアインシュタインが一年早く入学というのは本当だろうか?

これについて少し別の資料にも当たってみたところ、どうやら間違いではないようである。例えば、ノーベル賞公式サイトのアインシュタインの説明ページには以下のような記述がある。

... in 1896 he entered the Swiss Federal Polytechnic School in Zurich to be trained as a teacher in physics and mathematics.

当時のチューリッヒ連邦工科大学には、ミンコフスキー(Hermann Minkowski)を始めとする数学、理論物理学分野の有名な学者が多く在籍していた。リッツとアインシュタインは同じコースに所属していたので、大体同じ教授たちを先生に物理や数学を学んだようである。

二人に対する教授陣の評価は、リッツの方が上だったようである。文献 2 には以下のような記述がある。

チューリッヒ連邦工科大学でリッツの与えた印象はアインシュタインを凌ぐものであった。ミンコフスキーはアインシュタインを「のろまな犬」と評したと伝えられるが、リッツはミンコフスキーの推薦でゲッチンゲンのヒルベルト(David Hilbert)の下へと赴いているのである。

Ritz had made a better impression at Zurich than Einstein. For example, while Einstein was reportedly described by Minkowski as a "lazy dog," Ritz went to David Hilbert in Gottingen with amicable words from him.

その後、リッツとアインシュタインは、光の伝播に関して相容れない理論を構築して学問上対立することになるのであるが、それについてはまた後日。。。


参考文献

  1. Encyclopedia.com(Free Online Encyclopedia) Home > People > Science and Technology > Physics: Biography > Walter Ritz

  2. Alberto A. Martinez : Ritz, Einstein, and the Emission Hypothesis, Physics in Perspective, vol. 6, No. 1, p.4-28, 2004.




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2016
10.07

レイリーとリッツ

Category: 科学者伝
レイリー・リッツ法の歴史を振り返る前に、レイリー(Lord Rayleigh)とリッツ(Walter Ritz)の簡単なバイオグラフィーを書いておこう。

レイリーのバイオグラフィー的資料については、比較的詳しく書かれたものを見つけるのはそう難しくはない。例えば、ティモシェンコ(S. P. Timoshenko)の History of Strength of Materials では、レイリーのために一節が割かれていて("69. Lord Rayleigh," p. 334 - 339)、レイリーの略歴と業績についてコンパクトに纏められている。

もっと詳しいものを The Theory of Sound 内に見つけることもできる。1945年にアメリカのドーバー社から出版された The Theory of Sound には、冒頭に Robert B. Lindsay による Historical Introduction が収録されている。

これがなかなかよく書かれていて、読み応えのある内容である。レイリーのバイオグラフィーや研究業績についてだけでなく、同書に関係する分野の歴史についても触れられている。

ちなみに、The Theory of Sound の初版は 1877 年にマクミラン社から出版されている。上記の Historical Introduction は、もちろんこちらには出ていない。筆者が見ているのは、ドーバー社の The Theory of Sound であり、副題に Unabridged Second Revised Edition With An Historical Introduction By Robert B. Lindsay と付いたものなのでご注意を。

日本語で書かれたものでは、筆者の知る範囲で最も詳しいのは寺田寅彦の書いた「レーリー卿」である。これはウェブ上にも公開されているので閲覧は容易である。これを読めば、ちょっとしたレイリー通になれるほど内容は濃いものになっている。

ティモシェンコがレイリーの略歴を書くにあたって参照しているのが、レイリーの息子の Robert John Strutt が書いた John william Strutt, Third Baron Rayleigh である。筆者はこの本の内容については未確認なのだが、寺田寅彦もやはりこの本を参照したことを「レーリー卿」の末尾で断っている。

「バイオグラフィーを書いておこう」と書いておきながら、寺田の「レーリー卿」を読み直しているうちにその気もだんだん失せてしまった。筆者による焼き直しよりも上記の資料などを直接参照してもらう方が余程良いかと思われる。

仕方ないので(?)、レイリーの生きた 1842 年から 1919 年(19世紀半ばから20世紀前半)がどのような時代であったかを(科学史ではなく一般社会の歴史について)補足しておこう。

1842 年と言えば、イギリスが中国(清)相手にアヘン戦争に勝利した年である。19 世紀後半はイギリスが中国やインドといったアジア地域を植民地化していった時期にあたる。日本は幸い欧米列強による植民地化を免れたが、大政奉還、倒幕、明治新政府の樹立、廃藩置県といった大転換を余儀なくされたのは歴史の時間に習った通りである。

司馬遼太郎氏が明治初めの混乱期を描いた「翔ぶが如く」には、西郷隆盛らとも親交があったとされる印象的なイギリス人駐日通訳官(外交官?)アーネスト・サトウが登場する。このサトウが生まれたのがレイリー誕生の次の年で、亡くなったのがレイリー没年の 10 年後なので、二人の生きた時期は概ね重なっている。

幕末には薩摩藩や長州藩がイギリスに密かに留学生を派遣したり、維新後にはイギリスから多くの「お雇い外国人」を招いて科学技術の指導を仰いだりしている。レイリーの亡くなった1919年は、日本も参戦した第一次世界大戦が終わりベルサイユ条約が締結された年であるが、日本の参戦は1902年に締結された日英同盟が背景にある。

このように日本とイギリスは浅からぬ関係にあったのだが、残念ながらレイリーはと言うと、日本との接点は殆どなかったようである。手近な資料にあたっただけであるが、幾つか目を通してレイリーの日本絡みの話題は僅かに一つ見つかっただけであった。もっと手広く探せばまだあるのかも知れないが。

レイリーについては以上。リッツについてはまた後日。。。


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