地震工学における応答スペクトル法の起源は、1932年にビオ(Maurice Anthony Biot)がカリフォルニア工科大学に提出した学位論文の第2章であると言われている。以前、このブログでも「海外における柔剛論争」と題した記事で、フォン・カルマンと共に柔構造支持派の一人としてビオのことを紹介した。
カリフォルニア工科大学と言えば、前回も書いたように、1931年に末広恭二の講演の行われた場所の一つである。ビオは末広の地震波分解器を知っていたのであろうか?この辺りの状況について、Robert Reitherman は、「Earthquakes and Engineers : An International History」の中で以下のように述べている。
「応答スペクトルの理論は、ビオ(1905 - 1985)の研究により1930年代に目覚ましい発展を遂げた。彼のカリフォルニア工科大学での学位論文は歴史的なものであるが、その概念の本質のいくらかは、既に末広によって検討されていたのである。末広は、1931年にカリフォルニア工科大学で講演を行っている。ビオとその指導教官のフォン・カルマンは、講演やASCE刊行の記事を通して、末広の研究を知っていたと思われる。」
応答スペクトル(現在我々が言うところの)の説明として、大崎順彦氏の「地震と建築」、または同氏の「新・地震動のスペクトル解析入門」に出ている図がとても分かり易い。その図には、減衰が等しく、固有周期が異なる複数の倒立振子が同じ土台に固定された絵が載っている。その土台に地震波を入力して各振子の時刻歴応答を記録し、その最大値をグラフの縦軸の値に、振子の周期を横軸の値としてグラフを描画したものが応答スペクトルとなる。
末広の地震波分解器は、まさにこの図を装置化したものといえる。ただ、減衰はほぼゼロに限られるし、得られるのは変位応答である。また、振子のタイプも同じではない。また、末広の講演記事にスペクトルの図(Fig. 42)が出ているのだが、これは変位応答スペクトルではなく、横軸が周期で、縦軸が頻度(frequency of occurrence)の頻度分布曲線である。
話が前後するが、この地震波分解器とその成果を紹介している節のタイトルが、"The Period of the "Natural" Ground Motion"となっていることからも分かるように、この装置の目的は、地盤の卓越周期を調べることである。
"卓越周期"などと書いてしまったが、1931年の時点では地震動の何たるかが分かっていないのであるから、このような概念があったとしてもまだ確たるものではなかったであろう。実際、講演の中でも、"もしそういうものがあるとして(if any)"、と断って話を進めているし、natural period と言ったり、prevalent period と言ったり、 period of habitual motion peculiar to the ground と言ったりと様々な呼び方をしている。
この装置を地震研究所のある本郷に設置して地震時の振子の時刻歴応答を記録したところ、周期0.3秒の振子が最も激しく揺れる結果が得られ、本郷の natural period は0.3秒であることが示唆される、と末広は語っている。スペクトルの図(Fig. 42)は、その頻度分布を表すものであり、0.3秒の所にピークがある。
ハウスナーをして末広の装置が応答スペクトルの起源であると言わしめた所以は、当時の建物や構造物が含まれる周期帯に着目したこともあるかと思われる。「地震波分解器及其記録」という日本語の論文にも以下のような記述がある。
「一秒以上が粗く0.2秒飛びになっているに関らず、一秒以下が細く0.1秒飛びになっているのは、本来の目的が構造学上の研究にあって、地震学主体の研究は著者に取っては副であるからである。いうまでもなく建築構造に対しては、1秒以上の周期を有する地震動は余り顧慮する必要はない。」
横軸が周期で、縦軸が頻度と言えば、先に挙げた「新・地震動のスペクトル解析入門」の第2章は「周期-頻度スペクトル」というタイトルで、ゼロ・クロッシング法(いわゆる金井スペクトルを求める時に使用される)やピーク法についての説明がある。講演記事の Fig. 42 も周期-頻度スペクトルと言えるのであろうが、どのようにして求めたのかについては、記事内にも「地震波分解器及其記録」にも詳しい説明がないのではっきりしない。
金井スペクトルのついでに書いておくと、金井スペクトルに関して使われる周期頻度や卓越周期という言葉の定義が、小林啓美氏の「金井清の“On Microtremors VIII”について」という記事に出ているので以下に示しておく。
周期頻度 (Period Distribution Curve):
周期帯を等比間隔で区切ったとき0-Crossing で求めた周期の出現する頻度(頻度分布曲線)。
卓越周期 (Predominant Period):
周期頻度が最大となる周期。もともとこの卓越周期をもって、地震観測特に短周期地震計(加速度地震計)で得られた地震動の卓越周期が表現出来ることを目的として研究が始められたものである。
"周期帯を等比間隔とする"理由などについては、「新・地震動のスペクトル解析入門」の方に詳しく書かれているので参照されたい。
最後にもう一つ、末広の装置で特徴的なのは、据え付けられた地点の"生の地震動"が入力されることである。観測装置だから当たり前と言えば当たり前であるが、時刻歴解析や応答スペクトルの本来あるべき姿を表していると言えそうである。
エルセントロなどという縁もゆかりも無い場所で採れた地震波で応答解析をやる意味について留意する必要があるだろう。エルセントロ、タフト、八戸の"谷間を狙った設計"などを末広恭二が知ったらどう思うであろう。。。
カリフォルニア工科大学と言えば、前回も書いたように、1931年に末広恭二の講演の行われた場所の一つである。ビオは末広の地震波分解器を知っていたのであろうか?この辺りの状況について、Robert Reitherman は、「Earthquakes and Engineers : An International History」の中で以下のように述べている。
「応答スペクトルの理論は、ビオ(1905 - 1985)の研究により1930年代に目覚ましい発展を遂げた。彼のカリフォルニア工科大学での学位論文は歴史的なものであるが、その概念の本質のいくらかは、既に末広によって検討されていたのである。末広は、1931年にカリフォルニア工科大学で講演を行っている。ビオとその指導教官のフォン・カルマンは、講演やASCE刊行の記事を通して、末広の研究を知っていたと思われる。」
応答スペクトル(現在我々が言うところの)の説明として、大崎順彦氏の「地震と建築」、または同氏の「新・地震動のスペクトル解析入門」に出ている図がとても分かり易い。その図には、減衰が等しく、固有周期が異なる複数の倒立振子が同じ土台に固定された絵が載っている。その土台に地震波を入力して各振子の時刻歴応答を記録し、その最大値をグラフの縦軸の値に、振子の周期を横軸の値としてグラフを描画したものが応答スペクトルとなる。
末広の地震波分解器は、まさにこの図を装置化したものといえる。ただ、減衰はほぼゼロに限られるし、得られるのは変位応答である。また、振子のタイプも同じではない。また、末広の講演記事にスペクトルの図(Fig. 42)が出ているのだが、これは変位応答スペクトルではなく、横軸が周期で、縦軸が頻度(frequency of occurrence)の頻度分布曲線である。
話が前後するが、この地震波分解器とその成果を紹介している節のタイトルが、"The Period of the "Natural" Ground Motion"となっていることからも分かるように、この装置の目的は、地盤の卓越周期を調べることである。
"卓越周期"などと書いてしまったが、1931年の時点では地震動の何たるかが分かっていないのであるから、このような概念があったとしてもまだ確たるものではなかったであろう。実際、講演の中でも、"もしそういうものがあるとして(if any)"、と断って話を進めているし、natural period と言ったり、prevalent period と言ったり、 period of habitual motion peculiar to the ground と言ったりと様々な呼び方をしている。
この装置を地震研究所のある本郷に設置して地震時の振子の時刻歴応答を記録したところ、周期0.3秒の振子が最も激しく揺れる結果が得られ、本郷の natural period は0.3秒であることが示唆される、と末広は語っている。スペクトルの図(Fig. 42)は、その頻度分布を表すものであり、0.3秒の所にピークがある。
ハウスナーをして末広の装置が応答スペクトルの起源であると言わしめた所以は、当時の建物や構造物が含まれる周期帯に着目したこともあるかと思われる。「地震波分解器及其記録」という日本語の論文にも以下のような記述がある。
「一秒以上が粗く0.2秒飛びになっているに関らず、一秒以下が細く0.1秒飛びになっているのは、本来の目的が構造学上の研究にあって、地震学主体の研究は著者に取っては副であるからである。いうまでもなく建築構造に対しては、1秒以上の周期を有する地震動は余り顧慮する必要はない。」
横軸が周期で、縦軸が頻度と言えば、先に挙げた「新・地震動のスペクトル解析入門」の第2章は「周期-頻度スペクトル」というタイトルで、ゼロ・クロッシング法(いわゆる金井スペクトルを求める時に使用される)やピーク法についての説明がある。講演記事の Fig. 42 も周期-頻度スペクトルと言えるのであろうが、どのようにして求めたのかについては、記事内にも「地震波分解器及其記録」にも詳しい説明がないのではっきりしない。
金井スペクトルのついでに書いておくと、金井スペクトルに関して使われる周期頻度や卓越周期という言葉の定義が、小林啓美氏の「金井清の“On Microtremors VIII”について」という記事に出ているので以下に示しておく。
周期頻度 (Period Distribution Curve):
周期帯を等比間隔で区切ったとき0-Crossing で求めた周期の出現する頻度(頻度分布曲線)。
卓越周期 (Predominant Period):
周期頻度が最大となる周期。もともとこの卓越周期をもって、地震観測特に短周期地震計(加速度地震計)で得られた地震動の卓越周期が表現出来ることを目的として研究が始められたものである。
"周期帯を等比間隔とする"理由などについては、「新・地震動のスペクトル解析入門」の方に詳しく書かれているので参照されたい。
最後にもう一つ、末広の装置で特徴的なのは、据え付けられた地点の"生の地震動"が入力されることである。観測装置だから当たり前と言えば当たり前であるが、時刻歴解析や応答スペクトルの本来あるべき姿を表していると言えそうである。
エルセントロなどという縁もゆかりも無い場所で採れた地震波で応答解析をやる意味について留意する必要があるだろう。エルセントロ、タフト、八戸の"谷間を狙った設計"などを末広恭二が知ったらどう思うであろう。。。
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前回は、ハウスナー(George W. Housner)が、末広恭二の地震波分解器を応答スペクトルの起源とみなしていることについて書いたが、今回はこの装置について少し書いてみたい。
この装置の写真を初めて見た時は、外見が楽器に似ているという感じを受けた。縦向きの振子が並んでいるので、パイプオルガンや笙に似ていると言えようか。音も地震も同じ振動現象であるから、形が似てくるのは当然かもしれない。
仕組みとしてもっと近いのはオルゴールであろうか。オルゴールは、回転するドラムに配置されたピンが、長さの違う櫛歯をはじいてその櫛歯固有の振動数の音を出す。地震波分解器も、下の方に記録用の回転ドラムが付いており、長さの違う13個の振子が地震で各々に揺れると、ドラムに13個の波形が各々に描かれるのであるから、オルゴールの逆をやっていると言えなくもない。
ただ、各振子には自由振動を消すために水を使ったダンパーが付いている。13個の振子の固有周期は、およそ0.2秒から1.8秒の間にある。1秒以下は0.1秒間隔、1秒以上は0.2秒間隔となっている。1秒以下を細かくしているのは、この当時問題となる建物や構造物の固有周期はこの範囲のものが多かったからである。
末広の講演には、同じ地震研究所の寺田寅彦や坪井忠二の研究結果の引用が何度か出てくるのだが、この寺田寅彦が、末広の死後に書いた「工学博士末広恭二君」という随筆の中でこの地震波分解器について触れている。
「多数の共鳴体を並列して地震動を分析する装置を考案し実際の地震の観測に使用してかなり面白い結果を得た。」
また、末広の自作機械を以下のように評している。
「実験の方でも高価な既成の器械を買ってやるよりも、自分で考案した一見じじむさいように見える器械装置を使って、そうして必要なる程度での最良の効果を収めることに興味をもっていたように見える。」
実際に、寺田寅彦は"じじむさい"といった感想を末広に語ったのではないだろうか。末広の2番目の講演の中に、この点を気にしているかのような部分がある。
「Fig.40(地震波分解器の写真が出ている図)に示す装置は、とても不恰好だが、満足に機能するものである。」
(The instrument shown in Fig. 40, although very clumsy in appearance, works sufficiently.)
と弁解しているのである。
余談だが、寺田寅彦は自分の考えを率直に伝える人であったらしい。それは言われた方からすると、毒舌と感じられたかもしれない。寺田寅彦の別の随筆で、夏目漱石の俳句について寺田が感想を述べたら、漱石が「ひでえことを言いやがる。」と言ったと書いているのを読んだ記憶がある。
話がそれたままになってしまった。。次回は、応答スペクトルの観点から見たこの装置について書く予定。
この装置の写真を初めて見た時は、外見が楽器に似ているという感じを受けた。縦向きの振子が並んでいるので、パイプオルガンや笙に似ていると言えようか。音も地震も同じ振動現象であるから、形が似てくるのは当然かもしれない。
仕組みとしてもっと近いのはオルゴールであろうか。オルゴールは、回転するドラムに配置されたピンが、長さの違う櫛歯をはじいてその櫛歯固有の振動数の音を出す。地震波分解器も、下の方に記録用の回転ドラムが付いており、長さの違う13個の振子が地震で各々に揺れると、ドラムに13個の波形が各々に描かれるのであるから、オルゴールの逆をやっていると言えなくもない。
ただ、各振子には自由振動を消すために水を使ったダンパーが付いている。13個の振子の固有周期は、およそ0.2秒から1.8秒の間にある。1秒以下は0.1秒間隔、1秒以上は0.2秒間隔となっている。1秒以下を細かくしているのは、この当時問題となる建物や構造物の固有周期はこの範囲のものが多かったからである。
末広の講演には、同じ地震研究所の寺田寅彦や坪井忠二の研究結果の引用が何度か出てくるのだが、この寺田寅彦が、末広の死後に書いた「工学博士末広恭二君」という随筆の中でこの地震波分解器について触れている。
「多数の共鳴体を並列して地震動を分析する装置を考案し実際の地震の観測に使用してかなり面白い結果を得た。」
また、末広の自作機械を以下のように評している。
「実験の方でも高価な既成の器械を買ってやるよりも、自分で考案した一見じじむさいように見える器械装置を使って、そうして必要なる程度での最良の効果を収めることに興味をもっていたように見える。」
実際に、寺田寅彦は"じじむさい"といった感想を末広に語ったのではないだろうか。末広の2番目の講演の中に、この点を気にしているかのような部分がある。
「Fig.40(地震波分解器の写真が出ている図)に示す装置は、とても不恰好だが、満足に機能するものである。」
(The instrument shown in Fig. 40, although very clumsy in appearance, works sufficiently.)
と弁解しているのである。
余談だが、寺田寅彦は自分の考えを率直に伝える人であったらしい。それは言われた方からすると、毒舌と感じられたかもしれない。寺田寅彦の別の随筆で、夏目漱石の俳句について寺田が感想を述べたら、漱石が「ひでえことを言いやがる。」と言ったと書いているのを読んだ記憶がある。
話がそれたままになってしまった。。次回は、応答スペクトルの観点から見たこの装置について書く予定。
末広恭二について、アメリカ側から見た評価の例として、まずは大御所ハウスナー(George W. Housner)の話を以下に紹介したいと思うが、その前に末広恭二がアメリカで行った講演からロング・ビーチ地震に至るまでを時系列に示しておきたい。
1931年11月、12月
末広恭二の3つの講演
(カリフォルニア大学、スタンフォード大学、
カリフォルニア工科大学、マサチューセッツ工科大学において)
1932年4月9日
末広恭二、急性肺炎のため死去
1932年5月
講演内容を纏めたものがASCEから出版される
1933年3月10日
ロング・ビーチ地震で加速度の記録に成功
これらの日時(ロング・ビーチ地震を除く)は、ASCEから出ている講演の記事「Engineering Seismology, Notes on American Lectures」(以下 Notes とする)のイントロダクション(末広恭二および公演の概要を紹介した内容)に書かれている。この部分は、末広にアメリカでの講演を依頼した、アメリカ側の強震観測のキーパーソンと言えるフリーマン(John R. Freeman)が書いたものである。
大崎順彦著「地震と建築」で末広の講演が1932年となっているのは、恐らく講演記事が出版された年を指していると思われる。
なお、末広の3つの講演のタイトルは以下の通りである。
I History of Development of Seismology in Japan
II Engineering Seismology
III Vibrations of Buildings in an Earthquake
前置きが長くなったが、ハウスナーの話である。これは、EERI(アメリカ地震工学会)から出ている Oral History というインタビュー記事からの引用である。
「マーテル(Romeo R. Martel)に大きな影響を与えたもう一人は、末広恭二であった。1923年の関東地震の後、末広は地震研究所の初代所長に就任している。私は末広の論文集を持っているが、それらを読むと彼が非常に有能な人であったという印象を受ける。」
マーテルとは、カリフォルニア工科大学でのハウスナーの師匠(日本的な表現だが)にあたる人で、soft first story の考えを提唱したことでも知られる。1930年頃の耐震建築の分野を代表する研究者である。
マーテルに影響を与えたもう一人は、構造力学でお馴染みのモーメント分配法(固定モーメント法とも言う)を考案したハーディ・クロス(Hardy Cross)である。ハウスナーの話を続ける。
「マーテルは、1923年の地震後に日本を訪れた際に末広に会い、お互い大変尊敬するようになったのだが、このことはマーテルの死後に私が引き取った、二人の間でやり取りされた手紙の内容からも見て取れる。」
しかし、インタビュー記事の中で何よりも重要なのは、"1920年代:末広の振子"という見出しの後に続く以下の部分であろう。
「応答スペクトルの歴史を振り返ると、そこに辿り着くまでに多くの事柄を見出せる。もちろん、どれくらいの人がそれらに通じているかを知らないが、応答スペクトルの起源は末広恭二が日本で作り上げた地震波分解器であったと私は考えている。」
つまり、ハウスナーの意見では、応答スペクトル法に先鞭をつけたのは末広恭二であることになるのだが、このような意見は、少なくとも筆者の調べた日本人による文献には見られないのである。
前回示した大崎順彦著「地震と建築」でもこのような見解は示されていないし、その他の文献も似たり寄ったりである。「地震と建築」の主要なテーマは応答スペクトル法と言えなくもないので、この功績をぜひ強調して欲しかった。更にハウスナーの話を続ける。
「末広は東京帝国大学附属地震研究所の初代所長であった。彼の装置は、振動周期を順に伸ばした6つの振子から成っていて、異なる振子が地震動にどのように応答するかを見ることを意図したものであった。地震時に記録される6つの振子の最大振幅は、変位スペクトル曲線上の6点を与えることになる。」
この「6つの振子」の部分は、恐らくハウスナーの記憶違いと思われる。末広自身の「地震波分解器及其記録」(1926年)や Notes を見ると、振子は13個あることが分かる。この装置については、「地震波分解器及其記録」に詳しいが、装置の写真は2番目の講演の記事内で見ることができる。
次回は、この装置についてもう少し書いてみたい。
参考文献
CONNECTIONS, The EERI Oral History Series, George W. Housner, Stanley Scott, Interview, 1997
1931年11月、12月
末広恭二の3つの講演
(カリフォルニア大学、スタンフォード大学、
カリフォルニア工科大学、マサチューセッツ工科大学において)
1932年4月9日
末広恭二、急性肺炎のため死去
1932年5月
講演内容を纏めたものがASCEから出版される
1933年3月10日
ロング・ビーチ地震で加速度の記録に成功
これらの日時(ロング・ビーチ地震を除く)は、ASCEから出ている講演の記事「Engineering Seismology, Notes on American Lectures」(以下 Notes とする)のイントロダクション(末広恭二および公演の概要を紹介した内容)に書かれている。この部分は、末広にアメリカでの講演を依頼した、アメリカ側の強震観測のキーパーソンと言えるフリーマン(John R. Freeman)が書いたものである。
大崎順彦著「地震と建築」で末広の講演が1932年となっているのは、恐らく講演記事が出版された年を指していると思われる。
なお、末広の3つの講演のタイトルは以下の通りである。
I History of Development of Seismology in Japan
II Engineering Seismology
III Vibrations of Buildings in an Earthquake
前置きが長くなったが、ハウスナーの話である。これは、EERI(アメリカ地震工学会)から出ている Oral History というインタビュー記事からの引用である。
「マーテル(Romeo R. Martel)に大きな影響を与えたもう一人は、末広恭二であった。1923年の関東地震の後、末広は地震研究所の初代所長に就任している。私は末広の論文集を持っているが、それらを読むと彼が非常に有能な人であったという印象を受ける。」
マーテルとは、カリフォルニア工科大学でのハウスナーの師匠(日本的な表現だが)にあたる人で、soft first story の考えを提唱したことでも知られる。1930年頃の耐震建築の分野を代表する研究者である。
マーテルに影響を与えたもう一人は、構造力学でお馴染みのモーメント分配法(固定モーメント法とも言う)を考案したハーディ・クロス(Hardy Cross)である。ハウスナーの話を続ける。
「マーテルは、1923年の地震後に日本を訪れた際に末広に会い、お互い大変尊敬するようになったのだが、このことはマーテルの死後に私が引き取った、二人の間でやり取りされた手紙の内容からも見て取れる。」
しかし、インタビュー記事の中で何よりも重要なのは、"1920年代:末広の振子"という見出しの後に続く以下の部分であろう。
「応答スペクトルの歴史を振り返ると、そこに辿り着くまでに多くの事柄を見出せる。もちろん、どれくらいの人がそれらに通じているかを知らないが、応答スペクトルの起源は末広恭二が日本で作り上げた地震波分解器であったと私は考えている。」
つまり、ハウスナーの意見では、応答スペクトル法に先鞭をつけたのは末広恭二であることになるのだが、このような意見は、少なくとも筆者の調べた日本人による文献には見られないのである。
前回示した大崎順彦著「地震と建築」でもこのような見解は示されていないし、その他の文献も似たり寄ったりである。「地震と建築」の主要なテーマは応答スペクトル法と言えなくもないので、この功績をぜひ強調して欲しかった。更にハウスナーの話を続ける。
「末広は東京帝国大学附属地震研究所の初代所長であった。彼の装置は、振動周期を順に伸ばした6つの振子から成っていて、異なる振子が地震動にどのように応答するかを見ることを意図したものであった。地震時に記録される6つの振子の最大振幅は、変位スペクトル曲線上の6点を与えることになる。」
この「6つの振子」の部分は、恐らくハウスナーの記憶違いと思われる。末広自身の「地震波分解器及其記録」(1926年)や Notes を見ると、振子は13個あることが分かる。この装置については、「地震波分解器及其記録」に詳しいが、装置の写真は2番目の講演の記事内で見ることができる。
次回は、この装置についてもう少し書いてみたい。
参考文献
CONNECTIONS, The EERI Oral History Series, George W. Housner, Stanley Scott, Interview, 1997