2014
10.20

震度0.1にまつわる話(7)(内藤多仲が採用していた震度)

Category: 地震工学史
内藤多仲が実践していた耐震設計法が震度 0.1 の規定に影響したらしいということは、多くの本や資料に書かれている。例えば、大崎順彦著「地震と建築」にも以下のような記述がある。

「日本における耐震建築第一号は、早稲田大学教授内藤多仲が独自の発想に基づいて耐震設計を行った、東京丸の内の日本興業銀行本店である。この建築は、竣工直後に関東大地震に遭遇し、アメリカ直輸入の工法によった当時著名な大ビルディングがことごとく崩壊したり大破した中にあって、ビクともしなかったことから、内藤の名は耐震工学の第一人者として、一躍世界的に有名になった。実際このときの内藤の発想と、この建築の耐震設計に用いた地震動の強さの評価値とは、その後今日に至るまで、設計手法の原点をなしている金字塔なのである。」

この後に佐野利器の震度の説明があり、続けて以下の記述がある。

「それでは肝心の震度 k の値を、いくらとすればよいのか。これには関東大地震の際に、崩れ去った多くの建築の中で、ビクともしなかった日本興業銀行の体験が決め手となった。設計者の内藤多仲は、この建築の耐震設計にあたって震度 2/15 つまり 0.133 という値を使っていたが、これよりさらに安全をみて震力を大き目に見積もることとし、関東大地震直後の 1924(大正13)年に「市街地建築物法」という法律で、以後の耐震設計には震度 0.2 を用いるよう規定した。」

内藤多仲の用いていた震度は、後述するが、震度 2/15 ではなくて 1/15 である。震度 0.1 も 0.2 となっていて不可解である。よく知られているように、震度 0.1 は後年 0.2 に引き上げられたので、このことが頭にあったために招いた誤植なのかもしれない。

内藤多仲自身による説明は、「日本の耐震建築とともに」という本の「建築構造学を育てる」という節に以下の様に書かれている。

「私の専攻する構造学の由来をただせば、佐藤(功一)先生が構造法という技術に対し構造学という学問があるべきといわれた。つまり先生の示唆で建築構造学という学問が生れたのだ。(中略)「鉄骨接手やその剛度(かたさ)に関する実験的研究」と「架構(ほねぐみ)や耐震壁を中心とする理論的研究」とその二つをまとめ上げて論文にする考えであった。」

「理論の方はこれを二、三の建物について、実際の設計の応用した。最初に設計した興銀や歌舞伎座などはその実例である。当時、大森博士は地震の神様という尊称を奉られていたが、博士から指導を受けたわれわれは、地震震度を 1/15 - 1/20 と考えて設計したものである。」

内藤多仲の行った講演「日本の耐震建築の変遷」にはもっとはっきりと 1/15 の数字が出ている。

「いま日本興業銀行の構造設計の大要を述べれば次の通りである。(中略)耐震計算としては分布係数は内部架構 1 に対し外壁部は 3、鉄筋壁は 10 とし、地震震度は 1/15、材料強度は ft = 1150 kg/cm^2、ft = 45kg/cm^2 とし静的に計算したものである。」

不可解と言えばもう一つ。但し、こちらは「地震と建築」ではない。

内藤多仲は、関東大地震を経験したことで鉄骨造に不信感を持つようになり、同時に RC 造を信奉するようになったと紹介している本もあるが、内藤自身はこれと全く反対のことを言っているのである。

「震災のとき一番強いといわれていた鉄筋コンクリートがボロを出し、見ようによっては一番弱いという感じを与えたのは皮肉であった。三田の日本電気などはアメリカ商社にすすめられ、増設分の工場などを鉄筋コンクリートにしたところ、結果は正反対、前から建っていた煉瓦造りの倉庫は安全で、鉄筋のほうはメチャメチャになってしまった。」

「そのほか東京電気、日立をはじめ鉄筋コンクリートのものは工場でもビルでもずいぶん崩壊したものが多かった。一番丈夫であるべきはずのものでも、設計や作り方によってはもっとも危険なものになるということが立証され、復興建築にたいしてよい参考となったわけである。これにくらべ、鉄骨建築自体の損害は比較的少なかった。丸ビルの間仕切り、壁の鉄筋筋違(斜めの材)が切れたのがかなりあったこととか、東京会館の柱が15センチほど曲がり壁が落ちたようなことがあるにはあったが、致命的なものではなかったのである。」

これは「日本の耐震建築とともに」の「関東大震災と耐震建築」という節に書かれているものである。RC 造でもアメリカの言うままにやっていてはダメだ、自国の状況に合わせてきちんと考えて作らないと、ということなのだろう。「アメリカのセールスエンジニア」という言葉が何度も出てくる。この辺りの状況は、東日本大震災の際の原発事故とダブって見えるのだが、どうだろうか?


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2014
10.17

日本とアメリカにおける I 形断面の意味するところ

Category: 鋼構造
日本の圧延 I 形鋼と H 形鋼の形状の違いとして、I 形鋼ではフランジの内側の辺が傾斜していて厚さが一定でない(テーパーが付けられている)ことやフランジ内側の先端にアールが取ってあることなどが挙げられる。その他、両者の寸法の特性にも違いがある。

この I 形断面、同じ I 形と言っても、日本とアメリカでは意味する内容が若干違うのである。

アメリカでは、I 形断面というカテゴリの中に、W 形、M 形、S 形、HP 形の各断面形が含まれる(AISC、Naming Convention for Structural Steel Products for Use in Electronic Data Interchange の "Section 2 I-Shaped Members"などを参照)。つまり、I 形というのは一段階広い意味で使われている。

W 形、M 形、S 形、HP 形の各断面形についての説明は、AISC、Manual of Steel Construction, Load & Resistance Factor Design の "STRUCTURAL SHAPES" 等にある。

W 形とは、Wide-Flange 形(ワイドフランジ、広幅フランジ)のことで、フランジ厚が一定である。日本の H 形に相当する断面である。

HP 形は、断面が H 形をした支持杭(H piles)のことで、この断面もフランジ厚が一定であるが、W 形と異なるのは、フランジ厚とウェブ厚が等しいというところである。

S 形は、American Standard Beams のことで、恐らく Standard の頭文字から S 形と呼ばれていると思われる。この断面形は、フランジ厚が一定でなく、内側の辺が傾斜していて、日本の I 形に相当する。傾斜は約17パーセント (2 in 12 inches)である。

M 形とは、Miscellaneous Beams のことで、Miscellaneous(その他諸々) の頭文字からこのように呼ばれている。I 形断面というカテゴリにあって、W 形、S 形、HP 形に分類されないものが M 形である。さらに詳細な情報(ウェブせいの範囲等)は、ASTM Designation A6/A6M に記されている。

各断面の図は、AISC : Manual of Steel Construction, Load & Resistance Factor Design の断面表などにも出ているが、W 形と M 形として同じ図が描かれているのがちょっと不満である。

AISC では以上のように分類しているが、紛らわしいことに ASTM(American Society for Testing and Materials, 米国材料試験協会) では S 形を I 形と呼ぶこともあるようだ。

ところで、先日、断面二次半径の記号として、日本では i 、アメリカでは r が使用されることについて書いた。その後思いついたのだが、日本で断面二次半径に r が使用されないのは、フィレット部分のアールに r を使っているからではないだろうか?アメリカではフィレット部分の寸法(測り方はアールではない)に k を当てている。

調べてみると、ユーロコード(Eurocode 3)は、断面二次半径もアールも日本と同じ記号が使われているのでちょっと驚いた。では、イギリスが起源かと思って BS 5950 も見てみたが、BS 5950 ではアメリカと同じ記号が使われているのであった。ドイツ DIN なども見てみようかと思ったが、もうお腹いっぱいという感じがして深追いはやめておいた。。。

参考文献

1. AISC : Naming Convention for Structural Steel Products for Use in Electronic Data Interchange (EDI), June 25, 2001

2. AISC : Manual of Steel Construction, Load & Resistance Factor Design, Second Edition, 1994.

3. ASTM Specification A6/A6M, Standard Specification for General Requirements for Rolled Steel Plates, Shapes, Sheet Piling, and Bars for Structural Use.


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2014
10.10

震度0.1にまつわる話(6)(今村明恒が作成した関東地震時の震度分布図)

Category: 地震工学史
「震災予防調査会報告 第百号 甲」に掲載されている今村明恒の「関東大地震調査報告」には、東京の震度分布図(第五十六図 東京市街地震度分布図)が載っている。この図中の震度の大きさは、小さい方から一割内外、一割五分内外、二割内外、二割五分内外の4段階に分けられている。

どのように各地の震度を決めたかというと、大体以下の4つのことから総合的に判断したようだ。

1.  9月1日本震時の地震計の記録
2.  家屋(主に木造)などの被害状況
3.  墓石などの柱状物体の転倒状況
4.  9月1日後に行った各地の余震観測

1については、本郷でも地震計の針が振り切れたように、どの観測点も十分と言える記録は採れ無かったようである。同じ地点でも、東西はOKだが、南北は正確ではないなどという例もある。布良、沼津での記録の解析結果の説明の後に以下の文(p.30 上段後半)がある(原文を一部変更)。

「初動微動継続時間に就いては、震源距離 300 km以内においてこれを正しく記録したものは東京以外には無かったらしい。地震計が実動もしくは二倍程度のものでない限り、大抵初期微動部の終わらざるうちに描針が記象紙外に逸出したのである。」

本郷の地震計の倍率は二倍である。強震動の場合は、むしろ縮小するくらいでないと記録に失敗するのである。

2については、「第二章 第一款 被害統計と震度分布」に示されている。その初めの部分に、被害統計の倒壊家屋数から震度を推定したとある(p.33 下段中)。

「被害統計表において、特に倒壊家屋数の全棟数に対する百分率を求め、この率を基として震度の分布を推定しようとした。但し何れの府県においても棟数の統計は出来ていないから、やむを得ず戸数をもってこれに代用した。」

東京のような都会では一棟に何戸もの世帯が入居している場合が多いので、この評価では不正確となるきらいがあるとの注意書きがある。

大崎順彦著「地震と建築」にあるパコイマダムの例のように、加速度の大きさと地震被害が単純には結び付かないことを我々は知っている。同じ書名だがこちらは真島健三郎によって書かれた「地震と建築」にも、加速度の大小が建物被害とてんで対応しないことが複数の地震の例を通して指摘されている。なので、今村による震度の推定がどれほど信頼できるものかは疑問である。

さらに読み進めると、3に関連する記述が出てくる(p.38 上段前半)。

「自分は被害統計によりてのみならず、観察によっても震度を出すことを試みた。即ち地震の激しかった地方を巡って、家屋橋梁の破壊状態、柱状物体の転倒等から地震力を計算してみたのである。」

3と2は似ているが、3では加速度が直接的に求められるところが異なる。

今村の報告書を読んでいると、かなり頑張って調査した感じがひしひしと伝わってくる。だが、棚橋諒や末広恭二の見解は意外なほど冷やかである。以下は棚橋の見解。

「地震の加速度の推定としては概ね、転倒する物体より推定した値であって、即ちWestの公式から求められたものである。Westの公式は剛体がRockingを始めるに必要なる最大加速度の値であって、これを用いて転倒せる物体の比例より算出せる最大加速度の値は、推定し得る最小の最大加速度の値をいうに過ぎない。即ちその地点において少なくともその大きさの加速度が働いたという事を示すのであって、それ以上の加速度は働かなかったという証拠とはならないのであって、これをもって求められた値はすべて最大加速度いくら「以上」という事を示すものと考えなければならない。」

さすがにそこまでいい加減な調査をしたとも思えないのだが。。。倒れていない墓石についても吟味すれば、「以上」だけでなく「以下」も分かるのではないだろうか?しかし、末広もアメリカ講演の中で、剛体の転倒から求めた震度は信頼性の低いものだと述べている。

この辺りについては、大崎順彦著「地震と建築」では大分違った感じを受ける。以下はその部分。

「墓地にある墓石の数は、たいがい相当多いから、測定結果を統計的に処理すれば、地震動の最大加速度のおよその見当は付けられる。それに、墓石ほど簡単な形をした物体は、地上のどこを探してもない。また全国いたるところに、ほぼ同一のプロポーションのものがほとんど無数にある。だから墓石の転倒による強震加速度の推定といった原始的な方法も、あながち無意味なものとして退けることはできない。」

筆者は「地震と建築」を先に読んだせいもあって、"墓石の方法"はそれなりに有効なものだと思っていた。だが、改めて考えてみると、この調査をちゃんとやろうとすると、かなり大変な作業になるのではないかとも思える。倒れた墓石の縦、横、高さを測り、その墓石が元あった場所からどのように転倒、移動したかを考察するのは、一つの墓石だけでも時間を要しそうだ。それを統計的に有意といえる数だけ行う必要がある。墓石の密度も一律に仮定して問題ないのか、などなど。。。

3だけでなく4の作業も大変そうだ。今村は"土地の震動性能に対する知識を与ふる"ために計測器を担いで東京市内各地を巡回したそうだ(p.45 下段中央)。

「自分は大地震後頻々に起こった余震を利用して、市内各地点における土地の震動性能を調査することを企て、簡単地動計四個を用いて各地点における地震の同時観測を行った。(中略)十月中旬から開始して六ヶ月に三十二点を観測し終わった。四個の器械中一個は比較の基準たる大学地震学教室に置いたので、市中を巡回した器械三個であり、従って一観測点の観測には平均二週間を充てたことになる。」

現在の設計手法の一つである限界耐力計算では、表層地盤の増幅率(Gs値)を計算することになっている。今村の調査はこのGs値にあたるものを観測で求めたと言えるのかもしれない。

下町の震度については、「江東方面」という見出しの下に示されている。以下はその一部(p.47 上段後半)。

「越中島航空研究所における地震の比較観測の結果は、基準観測点の震動周期により著しき相違を示し、本郷の震動周期 0.8 秒乃至 0.9 秒のとき震度は二分の一となり周期 1.1 秒に対し震度は3倍たる三割程度に達したことであろう。これに反して本所横網河岸安田邸(元被服廠西隣)における比較観測は(中略)二倍半程度の震度を示すから、この区域を震度二割五分程度とするのは種々の方面から見て適当の様に思われる。」

被服廠のあった場所は、現在の両国国技館のすぐ近くである。地震の時にここに逃げ込んだ多くの人が火災旋風に巻かれて亡くなっている。避難する際に持ち込んだ家財道具が燃え種となったそうである。筆者も有事の際には蔵書の重要なもの幾冊かを抱えて逃げようなどと思っていたが、これは考え直した方がいいかもしれない。

場所は両国国技館からかなり離れるが、墨田区にある白髭団地という都営住宅をご存じだろうか?ここでは、団地の棟が、関東大震災の時のような火災発生時に巨大な防火壁となるように配置されている。筆者も以前見に行ったことがあるが、"巨大な壁"はかなりのインパクトであった。

さらに驚いたのは、団地近くにある木母寺というお寺のお堂がガラスの箱の中にあることであった。防火区域内なので木造建築をそのまま建てるのは許されないのだそうだ。この木母寺、能の「隅田川」の舞台となった由緒あるお寺だそうだが、ガラスに閉じ込められて窮屈で哀れに見えた。


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