2016
03.29

調和地動を受ける非減衰1質点系の応答

Category: 地震工学史
前回の記事のついでに、ダヌッソ(Arturo Danusso)が展開した震動論について軽く触れておきたい。その内容は、若干のアプローチの違いはあるものの、今日の教科書の初めの方に掲載されている「調和地動を受ける質点系の応答」や「モーダルアナリシス」とほぼ同じものである。

そこで、ダヌッソの理論について書く前に、現代の教科書の「調和地動を受ける 1 質点系の応答」の説明を先に見ておこう。柴田明徳著「最新 耐震構造解析」なら、「1・4 調和外力に対する応答 (C) 調和地動に対する過渡応答」に出ている内容である。以下で使用する記号は、同書で使われているものに合わせている。

ダヌッソは減衰を考慮していないので、ここでも非減衰系について議論することにする。そうすると、式はかなり簡単になる。

時刻 t での地動の変位( y0 )を y0 = a0 cos pt と仮定すると、系の相対変位( y )は、初期条件( t = 0 で y = 0、dy/dt = 0 )を適用して以下のように求まる。


eq1_3.jpg


ここに、ωは系の円振動数である。上式は、「最新 耐震構造解析」の式(1.90)である。だが、後での議論のために若干表現を変えてある。

地動の変位を y0 = a0 sin pt とした場合は、「最新 耐震構造解析」には出ていないが、同様な議論から以下のように求まる。


eq2.jpg


上記では変位応答しか求めていない。速度や加速度が必要になれば t で微分すればよい。非減衰系なので、加速度応答だけでよければ、運動方程式に上記の変位解を代入して求めることもできる。

ところで、地動変位を前者のような余弦に仮定すると、t = 0 で地面は既に変位していることになる。一方、後者のように正弦で置くと、t = 0 での地面の速度はゼロではないことになる。

このことは本質的にはどうでもよいことではあるが、なんとなくスッキリしないと感じる人もいるのではないだろうか。後で見るように、ダヌッソはスッキリしなかったらしく、t = 0 で地面の変位、速度ともゼロになるように配慮している。

みんな持ってる(?)メイトク先生の「最新 耐震構造解析」は、第三版が最新版のようである。筆者が所有している本は少し古いものなので、上記の節番号や式番号は第三版とは異なっているかも知れないのでご注意願いたい。

続きは後日。。。



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2016
03.07

ライトはイタリア仕込みの柔構造論者だった?

Category: 建築構造史
フランク・ロイド・ライト自伝中の"Building Against Doomsday(Why the Great Earthquake Did Not Destroy The Imperial Hotel)"と題した節には、ライトがいかにして帝国ホテルを耐震建築として計画、設計したかについて詳しく述べられている。

ライト研究の第一人者である谷川正巳氏によると、そこに示される内容は、帝国ホテルが予め耐震建築として計画されたかのように装うために書かれたもの(の可能性が高い)ということになるのは先日の記事に書いた通りである。

だが、ライトに関する前知識をあまり持たない筆者が上記の節を読んだ時に抱いた感想は、「ライト自身のものと思われるユニークな考えが含まれてはいるが、ライトは当時の柔構造理論の影響を受けていたのではないか」というものであった。

その理由は、ライトの発言内容とイタリア人エンジニア、アルトゥーロ・ダヌッソの展開した耐震理論とに通底するものがあると感じられたからである。

アルトゥーロ・ダヌッソとは誰か、といったことはずっと以前に採りあげたが、簡単に復習しておくと以下の通り。

イタリアでは、1908年に発生したメッシーナ大地震の後、有効な耐震設計法を募る2つのコンペが開催された。1つ目のコンペは、文献1では"ミランコンペ"と呼ばれているもので、Milan Institution of Engineers and Architects(イタリア建築学会ミラン支部みたいなものか?)が、地震の僅か3ヶ月後を締め切りとして募集したものである。

このコンペを勝ち抜いたのが、震動論に立脚する耐震理論を展開したアルトゥーロ・ダヌッソの案であった。主催した委員会がダヌッソの動的な理論を下敷きにしながら、静的水平力に対して建物を設計するという耐震規定を世界で初めて定めたのが1909年のことである。

文献1には、柔構造論者と見なせるようなダヌッソの言葉が紹介されている(拙訳と原文を併記)。

建物に入力されるであろうこの(地震の)エネルギーをできるだけ遮断すること、私の考えでは耐震建築の基本的な拠り所はここにある。地震エネルギーの遮断は、建物の構成部位を揺れの動作に素直に追従させることによって実現されるのであり、強固に揺れに対抗することによってなされるのではないであろう。

To cut as much as possible this (seismic) energy that will be transferred to the construction - here is, in my opinion, the fundamental standard of seismic building. This will be obeyed by letting the built organ follow the shaking action docilely, not by opposing it stiffly.

帝国ホテルは見た目は随分と剛で重たそうだが、下記のようにライトは柔構造として設計したのだと自伝に書いている。

... できるだけ剛にする必要から建物を重くするのではなく、薄く柔軟にすると同時に極めて軽くすればよいではないか。 ... 何故地震と争うのだ?地震に同調しておいて裏をかけばいいではないか。

... why not extreme lightness combined with tenuity and flexibility instead of the great weight necessary to the greatest possible rigidity? ... Why fight the quake? Why not sympathize it and out-wit it?

さらに以下のように、剛構造をはっきり否定して柔構造を支持している部分もある(ライトの"柔構造"は、建物を分割することを第一義とするユニークなもので、一般的な柔構造とは少し趣が異なるが)。

では、馬鹿げた剛構造の代わりにいかにして柔構造物を作るのか?それには建物を分割すればよい。

Now how to make the flexible structure instead of the foolish rigid one? Divide the building into parts.

この他にも、ライトの帝国ホテルもダヌッソの提案した2階建てRC造も低重心とすることが意識されているという共通点もある。

ライトの自伝の最初の版は1932年なので、1923年の関東地震の後にアメリカや日本で展開された柔構造論を参考にして、時間をかけて"後付け"の理論を拵えたかと思わるかもしれないがそうではない。

それは、ライトの"弟子"でライトの帰国後に未完成の帝国ホテルを完成させた遠藤新が1924年1月に発表した「帝国ホテルの構造について」という記事を読むと分かる。その記事中には「剛と柔」と題した節があり、ライトが帝国ホテルで実践した柔構造論が紹介されている。下記はその冒頭部分である(下記の"右の如く"とは、東京の建物が剛構造を指向したものになっていることを述べた部分を指している)。

右の如く強きのみを追うて建築すれば、建築は不自然に不適当に強くなると雖も、その為めに一方の破綻を来すことを免るべからず。柔道の理論は建築にも当て嵌まる。ただただ頑張るが故に却って思わぬ大怪我をすると同じ。

この記事はライトの"心酔者"によって書かれたものなので、帝国ホテルの良い面ばかりが強調されているように見受けられるし、ライトの"柔構造"はユニークなものではあるが、筆者が注目したいのはこの記事の発表された時期である。関東地震の僅か4ヶ月後であり、いわゆる柔剛論争のスタートと見なされる真島健三郎の論説「耐震家屋構造の選択に就て」(1924年4月)よりも先に発表されているのである。

そこで筆者の立てた仮説というのは、ライトは柔構造論を早くから知っていて、それはイタリアでダヌッソを中心として展開された耐震理論を知る機会があったからではないだろうか、というものである。

谷川正巳氏の「フランク・ロイド・ライトとはだれか」の巻末にはライトの生涯が年表に纏められている。同氏の「フランク・ロイド・ライトの日本」にもほぼ同じ内容の年表があり、こちらの方が見やすく書かれているので、以下ではこちらからの引用を示すことにするが、これを見るとダヌッソの理論がイタリアの耐震設計法に反映された1909年頃にライトはちょうどイタリアに居を構えているのである。

1909年(明治四十二年)四十二歳 シティ・ナショナル銀行およびホテルを設計、帝国ホテルのデザインの原型を、この銀行とホテルの複合ビルに見ることが出来る。十月、妻と六人の子供をオーク・パークに残したまま、施主の一人メイマー・ボースウィック・チェニー Mamah Borthwick Cheney とヨーロッパに駈落ちして彼の第一黄金時代、オーク・パーク時代は終焉した。

1910年(明治四十三年)四十三歳 イタリアのフィエゾレでアパート生活。ベルリンのヴァスムート社から作品集を刊行して、ヨーロッパ建築界に多大の影響を与える。

1911年(明治四十四年)四十四歳 ヨーロッパから帰国したライトは、オーク・パークには戻れず、チェニー夫人を伴って生地に近いスプリング・グリーンで新生活をはじめる。自邸やスタジオを持つこの建築群を、ライトは「タリアセン」と命名した。

"駈落ち"であっても、超人ライトはイタリアでも設計案を練ったり本を出版したりとちゃんと建築の仕事もこなしている。であるから、当時のイタリアの建築構造界でホットな内容であったはずの耐震設計法について知っていたとしてもおかしくないのではないだろうか。設計法の背景にあるダヌッソの振動論、ダヌッソが柔構造を良しとする考えを持っていたことを、読むなり聞くなりして知っていたのではないだろうか。

また、メッシーナ地震後の第二回目のコンペもダヌッソが一等を獲得しているのだが、このコンペは"フィレンツェコンペ"なのである(文献1)。ライトのアパートのあったフィエゾレは、フィレンツェのすぐ近くの町である。このことも、ライトとダヌッソがかなり接近していた可能性を示唆していると言えなくはないだろうか。

"大胆な仮説"とは、言い換えると"根拠に乏しい空想"である。直接的な証拠は何も無いので説得力は無いに等しい。筆者がライト研究者なら、イタリアに渡ってイタリア時代のライトをこの線から調査してみたいが、筆者はそんな立場には無いので、残念ながら"大胆な仮説"なままで留めておきたい。

ただ、柔剛論争も「佐野、武藤 v.s. 真島」というステレオタイプな見方に終始するのではなく、世界的に(といってもアメリカとイタリアだが)見れば柔構造支持者が多くいたことはもっと認識されてもいいのではないだろうか。その支持者というのが、今回紹介したライトと遠藤新、その元になっているかも知れないダヌッソである。

また、アメリカでは、フォン・カルマン(Theodore von Karman)やビオ(M. A. Biot)といった錚々たる学者達も柔構造支持者に含まれることは以前の記事で紹介した。フォン・カルマンは、カルマン渦で知られる"航空工学の父"であるし、ビオは応答スペクトルという耐震工学に不可欠の概念を構築した人として後世に記憶されている。

さらに言えば、日本では伝統的な木造建築は筋違ではなく貫で水平力に抵抗する柔構造であったことを考えると、当時真島健三郎の他にも少なからぬ柔構造支持者がいて、真島がそれを代弁していたと見なす方が自然なのかもしれない。

以上、ライトの柔構造理論について書いたが、実際に帝国ホテルが地震時に柔構造として機能したかはまた別問題である。実は、内藤多仲の調査では、寧ろライトのアイデアは佐野利器の理論と同じで、剛構造として機能したのが功を奏したことになっている(文献5)。

今回これを取壊すというので保存問題が大きく取り上げられたりしたので私も興味をもってさらにこれを追及することにしたのである。その第一は文献でライトの設計上の意図を読んでその耐震構造という点に非常に注意を払ったことが分かったのである。

大体の要領は地盤が、上部2~3メートルは表土でその下は20メートルも泥土である、鉄の舟でも海水に浮くのだから基礎を連続にすれば泥の上に浮ぶこと必定であると、ただ短い杭で土がためをした程度とし、なお下の泥層がバネの作用をし地震の振動をハネ返し却って安全である。

かつ建物は20メートル位ごとにジョイントを作り、むしろ柔かく自由に部分的に揺れさせ、地震がすんだら元に戻るという仕組みであると説明している。実に良く考えられているようだが結果的には大分違ってきた。

軍艦は非常に剛であるから水に浮くことは確かだがそれでも荷重状態では傾くこともあり得る、まして下が柔かで建物が均一に出来なければ部分不同沈下するのが当り前、また揺れて傾いたり不同沈下したものが元の水平に戻るとは考えられない。現に廊下などいたるところ波を打っているのでも判断できる。

ただこの建物が最も誇り得るところはともかくあの地震に崩壊しなかったことである。これはライトの構造のアイディアがそのころすでに唱えられていた佐野博士の煉瓦造の耐震手法そのものである。

これは煉瓦壁の腰なり、床なり、軒のところを十分臥梁を入れて締めつけ地震の外力により壁が曲らないようにすることが唯一の耐震法であるというその方式に全く一致しているのである。すなわち壁は煉瓦造でも床はコンクリートの一枚版でしかも壁の外まで突出しており屋根軒先も同様に連続し銅板屋根で軽くしてある。これなら地震に安全であるということが立証せられたことになるのである。


帝国ホテルでライトが展開した特徴的な構造理論の一つが「軟弱地盤の利用」であり、もう一つが「ウェイターのお盆(のような床)」である。上記で内藤多仲が書いていることもその辺りのことであるが、これについてはまた後日。


参考文献

  1. Luigi Sorrentino : THE EARLY ENTRANCE OF DYNAMICS IN EARTHQUAKE ENGINEERING: ARTURO DANUSSO’S CONTRIBUTION, ISET Journal of Earthquake Technology, Paper No. 474, Vol. 44, No. 1, March 2007

  2. Frank Lloyd Wright: An Autobiography, Pomegranate, 2005

  3. 遠藤新 : 帝国ホテルの構造について、科学知識、1924年1月

  4. 谷川正巳 : フランク・ロイド・ライトの日本 浮世絵に魅せられた「もう一つの顔」、光文社新書、2004

  5. 渡辺義雄(写真)、内藤多仲、明石信道、山本学治(文):帝国ホテル、鹿島研究所出版会、1968





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