2016
11.23

構造と意匠、不可分なるもの

Category: 構造一般
前回の記事では「見せるブレース」について書いた。ブレースと言えば以前ここでも触れたように、日本の伝統的な木造建築ではブレース(筋違)は通常使用されない。

だが、建築史の本を紐解いてみると、日本の木造建築でもかなり古い時代に筋違が使われている例を見つけることができる。例えば、文献 1 には、法隆寺舎利殿絵殿の筋違が示されている(下図は文献 1 の2.61図(p.220)を参照して筆者が作成)。

art140_fig.jpg


本文の方は以下の通り。

長方形を変形させないためには、筋違を入れて、三角形を構成することがもっともいい。このことは、中世の工人にも、経験上から知られたのであろう。たとえば、1219年の法隆寺舎利殿絵殿には壁に筋違が用いられている。また同じころ修理された伝法堂にも、このとき筋違を入れている。(なお、文献では1179年の東寺文書に筋違が見えている)。

1219年と書かれているので鎌倉時代である。その後筋違が広まらなかったのは、下記に示すように意匠上の理由からだそうである。

筋違の発見は、日本建築構造上の、画期的なことがらであった。しかし、それは広く用いられるに至らなかった。日本建築は真壁であったから、太い筋違を入れると、壁に筋違に沿って亀裂がはいる。水平垂直の二方向の線からできている日本建築に、斜めの線が入ることは、意匠上はなはだまずい。このため、筋違は小屋組にのみ用いられるようになった。

上記では意匠上の理由で筋違が廃れたことになっているが、構造その他の観点からも検討されて総合的に判断されたのではないかと想像する。南出孝一著「建築柔剛論争」でもこの法隆寺舎利殿絵殿の筋違が紹介されている。筋違の使用が広まらなかったことは、構造的に見れば柔構造形式が選択されたことを意味する。かなり重要な分かれ目であったと言えるかもしれない。

宮大工の棟梁は、意匠だけあるいは構造だけを考えれば済むといったものではないのはもちろんであろう。舎利殿、絵殿の筋違ではないが、最後の宮大工と呼ばれた西岡常一氏の「木に学べ」に法隆寺の金堂の屋根について面白い話が出ているので以下にそれを示そう(文献2 p.174、第六章 棟梁の言い分)。

法隆寺の金堂の屋根のことですが、これが創建時は"錣(しころ)ぶき"になっていたんやという学説ですけども、これは創建時はそうやなかったとわたしの調査でわかったんです。ところが学者は、そうやない、玉虫厨子と同じ錣ぶきやったはずだというんです。

玉虫厨子は錣ぶきという形の屋根なんです。学者がいうのは"様式論"なんですな。玉虫厨子のような反りのはずだというんですが、玉虫厨子は工芸品で、小さいからどないにでもなるんです。建築というのは軒が立つというと大きな桁がずんと下に入ってますから、そんな反りはできませんのや。

中略

現場で組みあげて見せて、こうしかならん。「これでも錣ぶきだと言われますか」と言いましたら、誰も何も言わずに帰ってしまわれた。大工に負けるのがかなわんさかいな。

現代では、学問の世界でも実務の世界でも専門化、分業化が進んでしまっている。全体を俯瞰する目を持つのはなかなか難しそうだ。

法隆寺から話が随分と飛ぶが、つい最近代々木競技場を世界文化遺に押すための団体が結成されたことが報道されていた。筆者が構造美という言葉と共に真っ先に思い浮かべるのがこの代々木体育館である。設計者は伝統的な日本建築を意識して設計したわけではないのに、出来上がってみると実に日本的な雰囲気を持つ建築になったと言われている。

その話も大変興味深いが、代々木体育館には他にもいくつか逸話めいた話がある。その一つが、意匠設計者の丹下健三の方が構造のことを頻りに気に掛け、逆に構造を担当していた坪井善勝が意匠のことばかり気に掛けていたというものである。

これはお互いがお互いを信頼していなかったということではなくて、自分の担当外についても十分に気を配るくらいでないと良い建築は生まれないということを言っているのだと思われる。


参考文献

  1. 太田博太郎ほか: 新訂 建築学大系 4-I 日本建築史、彰国社 1968

  2. 西岡常一: 木に学べ、小学館 1988


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