2014
09.14

震度0.1にまつわる話(3)(北沢五郎の証言)

Category: 地震工学史
前回は、佐野利器の家屋耐震構造論に東京の本所、深川等の下町の予期震度として0.3が示されていることを書いたが、佐野の考えと震度0.1との関係について触れていなかった。これについて書いてある本や資料は沢山あるので、あえて書かなくてもいいかと思っていたというのもある。

でも、読み返してみると尻切れトンボのようですっきりしない。今回は震度0.1が決められた場面に末広恭二が立ち会っていたことについて書きたいと思うが、同時に前回の内容を補うものでもある。

家屋耐震構造論の予期震度0.3が市街地建築物法の震度0.1になったことについては、この規定作成に係わった北沢五郎の証言が残っている。これは1957年の建築学大系第15巻に「震度談」として載っているものであるが、1960年の建築雑誌75号にも竹山謙三郎がその全文を紹介している(建築学大系の方には誤記と思われる箇所があるのだが、建築雑誌の方ではそれが修正されているので、以下の引用は建築雑誌の方を書き写した)。

北沢五郎は、警視庁建築課に所属していたことのある人で、末広恭二のアメリカ講演にも北沢の報告による関東地震時の木造と煉瓦造建物の被害統計が示されている。例によって大崎順彦「地震と建築」にも登場する。

少し長くなるが、以下に「震度談」の一部を示そう。

「建築法規で震度の規定を定めたのは大正12年の震災の後である。(中略)佐野利器先生が、大学教授現職のまま建築局長となられて、復興の大網を決定されたが、その一部として建築法規の改正をされ、震度法規を定められた。私は法規改正の係であり、先生の御指示により震度0.1という条文を書き上げた。」

これに続けて、0.3から0.1が出てくる経緯が語られる。

「当時今村博士が地震学教室におられ、その調査の結果が、大震災の震度は東京下町で0.3であったということがいわれていたと記憶する。佐野先生がそれによられたか、どうかは知らぬが、法規には0.1と規定し許容強度をとり、そして震度0.3で計算をして、破壊強度以内で収るかどうかを調べろといわれた。つまり先生のお考を忖度するに、耐震計算としては、下町の震度を0.3として、破壊の一歩手前にあるようにするには、0.1で計算して許容強度を採ればよいという御考えであったかと思う。」

この考え方は、現代の我々には馴染みのあるものだ(当たり前か)。上記の今村博士とは、もちろん今村明恒のことである。末広恭二がこの席で意見を述べていたことが以下のように書かれている。

「さて左様に法規原案を作り、震災予防調査会へ行かれ、その案を諮問せられた。私はお供をした。調査会々員は、工学理学の大家で地震の今村博士、物理の寺田・長岡・田中館博士、地震研究所を創められた末広博士その他であった。」

「震度0.3の地震に耐えられるように震度0.1を採ると説明されると、造船の末広博士が、船のほうでも、暴風その他の場合に処する計算は同様の考えでやっているといわれた。」

これだけ読むと、末広恭二も十分納得してこの案に同意したかのようにも思えるが、前々回も書いたように震度0.1は an arbitrarily assumed quantity に過ぎないと見なしているのである。

この後、今村明恒らがこの案の採決を迫られるのだが、よく分からないことを決めろと迫られたのであるから、それはちょうど今で言えば"無茶ぶり"である。

「しかし、将来東京・横浜に起りうる地震の震度は、どの程度かという推定については各委員も困られたようであったが、結局今村・中村両博士の予想を求めることになり、両博士はそれに対する返答を躊躇された。」

建築学大系第15巻では、"今村・中村両博士"の部分が、"今村・下村両博士"となっている。武村雅之著「地震と防災」には、下村は間違いで中村が正しく、中村左衛門太郎のことだろうと書かれている。

さらに続ける。

「どなたであったか、両博士に向って、御両人とも専門なのだから、そのぐらいのことはいえるだろうと発言された。私は聞いていてひどいことをいう人もあるものだと感じたことを覚えている。両博士も仕方なく、相談を始められたが、これが相当の時間を要した。最後に両博士から出た案は東京0.3、横浜0.35ということであり、佐野先生の御提案に調査会が同意したことになった。」

このようにライブ感満載で決まってしまった。だが、今村明恒にも相当迷いがあったらしく、後日この決定を変更するように言ってきているのである。

「しかし少時経過して、震災予防調査会から復興院に対して意見書が出てきた。それは震度は0.3とし強度を破壊強度以内として計算するようにということであった。これは現行の長期短期のゆき方と同様なものである。しかし当事者といってもわれわれ若輩は計算の手数を理由に原案で押しとおしたが、年を経過していまの方法についに変ったのである。」

佐野利器としては自分の提案が差し戻されるよりもスムーズに事が運ぶことを望んでいたはずである。各委員がどういった発言をするか、キーマンは誰かといったことは予め想定してこの場に赴いたと思われる。政治の世界なら、「両博士に向って、御両人とも専門なのだから、そのぐらいのことはいえるだろう」の発言者のような結論を急がせる人間を根回ししておくくらいのことはありそうだが、これは空想というか妄想か。。。

それにしても、このような重要会議の議事録は是非残しておいて欲しかった。「震度談」が残っていたのはせめてもの救いだが、長岡半太郎や寺田寅彦がどのような発言をしたかすごく気になる。

今回の内容の大部分は、武村雅之著「地震と防災」に詳しく紹介されているので、興味を持たれた人はそちらを見て頂きたい。関東地震についても、武村氏自身による被害の再評価なども示されていて大変興味深い。


参考文献

武村雅之 地震と防災 中公新書 2008年
建築学大系編集委員会編:建築学大系 第15巻月報 1957年
竹山謙三郎:高さ100尺制限と震度0.1はどうして決ったか 建築雑誌 75、1960年

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コメント
ずーっと不思議に思っているのですが、震度というときに地表加速度なのか、建物の応答加速度なのかが今一つ明快に書かれてないような気がします。
現行のベースシア0.2って、減衰10%程度の低層短周期建物の応答倍率が2倍くらいなので、100gal前後の地表加速度に対応していると思っているのですが、昔の人はどう思っていたんでしょうねぇ。
whitefoxdot 2014.09.16 20:45 | 編集
佐野利器の最初の定義は、地表面加速度に対応するのだと思います。

ただ、建物は頑丈に(剛に)作るべきとの考えから、建物は剛体に近いものを想定していて、そうすると地動加速度に建物質量を掛けたもの(震度に建物重量を掛けたもの)が地震力であり、それが重心に作用すると考えるので、その意味では応答加速度と言うこともできるかもしれません。

意味をはっきりさせるためだと思いますが、内藤多仲は地表面加速度に対して"地震震度"という言葉を使っています(「日本の耐震建築とともに」)。少し後になって出てくる修正震度法の震度は応答加速度に対応すると言えそうですね。

柔構造を支持する真島健三郎などは、実際の建物は剛体ではないのだから、建物の振動応答を無視する佐野の理論に承服できなかったのだと思います。

佐野利器も建物が変形することによる揺れを全く考えてなかったのではなく、家屋耐震構造論にもその辺りの考察はありますが、振動論を展開している訳ではなく、まだ直感的な議論のレベルだったと言えそうです。当時はまだ振動論を実際の建物に適用してよいものか確信が持てなかったのだと思います。そういったなかで実設計に理論を持ち込むとなると、まずは静的な扱いとなるのはやむを得なかったのではないでしょうか。

佐野利器以前に大森房吉とウェスト(Charles Dickinson West)が剛体の転倒についての実験をやっていたという背景もあるかと思います。絶対震度階から震度という言葉を生みだしたのも同じ流れにあるのかもしれません。

応答倍率といったものは、当時の日本ではまだ振動論者達によって色々と検討されていた段階で、佐野利器自身は上にも書いたように振動論に立脚していた訳ではないようです。

この点は、イタリアの方がかなり進んでいたようです。1909年にイタリアで耐震コードが規定されていますが、早くも層せん断力係数と同じといっていいものになっています。1階では1/12(=0.08)、2、3階では1/8(=0.13)という係数を当該階よりも上の重量に掛けた水平力を作用させるというものです。

上部ほど大きな係数値を採っているのは、建物の応答加速度が意識されていたことになると思いますが、これはダヌッソ(Arturo Danusso)が振動論に基づいて建物応答加速度を計算していたという背景があります。ダヌッソも震度に近い係数として"rapporto sismico" (英語だとseismic ratio)というものを提案していますが、震度と決定的に違うのは、最大地動加速度に対する最大応答加速度の比を採っていることで、考え方としては応答スペクトルに近いものになっているところです。

ただ、地震波については当時は全く分かっていなかったので、地面の動きとして単振動(調和地動)を仮定しているところは日本と状況は似たり寄ったりだったようです。あ、あと減衰はまだ考えてないですね。

イタリアは、ガリレオから始まって、当時でも物理や数学のレベルは日本に比べると相当高かったのではないかと思います。例えば、ダヌッソは理論構築の際に、レビ・チビタ(Levi-Civita)による3自由度系の運動の研究などを参考にしたようです。

レビ・チビタと言えば、弾性論などで出てくるテンソル解析学の創始者として有名ですね。イタリアで振動論がちょっとだけ設計に反映された(設計法としては静的ですが)のは、そういった背景もあったかと思っています。

大森房吉の転倒実験については以下の文献などがあります。ダヌッソについては、Sorrentinoのものが詳しく書かれていて面白いです。

Fusakichi Omori: On the overturning of columns, Seismological journal of Japan, 18, 1893

Luigi Sorrentino: THE EARLY ENTRANCE OF DYNAMICS IN EARTHQUAKE ENGINEERING: ARTURO DANUSSO'S CONTRIBUTION, ISET Journal of Earthquake Technology, Paper No. 474, Vol. 44, No. 1, March 2007
神田霞dot 2014.09.17 23:59 | 編集
ご丁寧に回答ありがとうございます。
例のダヌッソ氏。日本語の文献でほとんど紹介されていないのですが、国際建築1958年Vol25にて、ピレリビルのレポート内に出てました。部材の1/10模型実験について軽く触れられています。
whitefoxdot 2014.10.04 23:52 | 編集
日本語文献でダヌッソ(の模型実験)を引用しているものがあるんですね!コンクリート関連(床スラブだったかな?)の論文をいくつか書いているらしいので、その線で捜せば他にもあるかもしれませんね。

>国際建築1958年Vol25にて、ピレリビルのレポート内に
>出てました。

1958年の何月のものでしょうか?もしすぐに分かるようでしたら教えて貰えると嬉しいです。興味引かれるので、調べてみようかと思います。
神田霞dot 2014.10.07 00:30 | 編集
>1958年の何月のものでしょうか?もしすぐに分かるようでしたら教えて貰えると嬉しいです。
7月号になります。
本当にちょっとしたレポートで、イタリア超高層事情にちょろっと触れられている程度です。
whitefoxdot 2014.10.11 01:00 | 編集
情報ありがとうございます。
簡単に手に入るようなものではないようですが、探してみようかと思います。
神田霞dot 2014.10.12 21:26 | 編集
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