2014
11.07

丸ビルと福島第一原子力発電所

Category: 地震工学史
内藤多仲が「日本の耐震建築とともに」に書き記している内容から、関東地震発生前(1920年頃)の日本の建築業界の状況を少しばかり伺うことができる。ちょうど第一次世界大戦が終わった後で、日本は好景気にあった頃である。敵国となったドイツを始めとするヨーロッパとの交易が途絶えたため、アメリカとの交易が盛んになったようだが、それは建築業界も同じだったようだ。以下は同書の「アメリカ式建築は不安」と題した節に書かれているものである。

「建築界もその例にもれず、日本の技術は遅れているということから、丸ビル、郵船ビル、日石ビルをはじめ多くの建築を相ついでアメリカに注文した。いずれも設計、施工ともに完全なアメリカまかせで、ジョージ・フラー会社などが進出してアメリカ人のセールス・エンジニアが活躍し、アメリカ式建築が一世を風靡した観があったのである。」

上記に続けて、丸ビルの建設状況についての言及がある。

「私も丸ビルの工事現場をよく見に行ったが、20メートルぐらいの杭(米松)を基礎杭として打ち込むのを見ていると、地面がやわらかいので一トン半ぐらいのハンマーでたたくと、ずるずるとはいってしまう。鉄骨をくんで、あれよあれよといううちに二階、三階と建っていく。その速さはまるで手品のようであった。いわば速さと経済と簡単さをモットーにしたもので、注文した側はそれみろ、アメリカに頼めばざっとこのとおりと鼻高々で、ああいうふうにしなければいかんというのが当時の風潮というか常識になってしまった。」

アメリカと言えば、今考えてもすごいことだが、19世紀後半に既にシカゴやニューヨークに高層ビルが建てられているし、この頃には200mを超える超高層ビルも建てられているのである。日本から見れば、遠く及ばない先進国家と見えたのではないだろうか。アメリカ式に異論を唱えるなどできないといった雰囲気であったことが伺える。

昭和41年2月に開かれた「内藤多仲先生"関東大震災を語る"座談会」の記録(近代日本建築学発達史 1編 構造 7章)にも同じような話が多く出ている。甚だしいものを挙げると、

「その当時さっきの米国貿易会社のモスという人がきておりまして、さかんに鉄筋を売り込むのです。うちの鉄筋を使えば設計してやるというわけだから、みんな頼んで設計してもらった。極端な例は、三田の日本電気の建物で、あれはアメリカと資本の提携があって、GE などと提携があったんでしょう。だからモスの発言も強いんでしょうけれども、とにかく今度工場をやるならこの鉄筋を使ってこうしなさい、その鉄筋を使ってコンクリートにすれば、そこにあるれんが造の蔵などは地震でみんな壊れても、この工場は壊れませんよと、こういったのです。ところが地震の結果は、れんがの蔵はどうもなくて、鉄筋の方がすっかり参っちゃった。」

といった具合で、日立製作所の亀有の工場もぺしゃんこになったなどの話も語られている。

ただ、丸ビルについは、日本側担当者の桜井小太郎、山下寿郎らはアメリカ式の構造を盲目的に受け入れていた訳でもないようだ。稲田達夫氏による「「旧丸ビル」の歴史を振り返る」には、以下のような山下寿郎の回顧談が載っている。

「丸ビルがわが国事務所建築として、従来その比を見ないほどの巨大な各階床面積を持つものであるところから、地震動による建物各部位の振動が一様ではあり得ないことを憂慮して、当時の京都大学日比忠彦の地震動による建物各部位の応力計算法を適用して演算を試みた。採用した震度は0.15で、これによって生じた応力が鉄骨構造の破壊強度に達するも止むを得ないとの仮定のもとに、試算して得た数値に基づく構造図を、詳細図に作成、さらに試算の要領書を添えてフラーのニューヨーク本社に交渉におもむく桜井技師長に、アメリカ側に提示されるよう手配したが、この説明書と詳細図とは、遂にアメリカ側に示されることはなかった。」

稲田氏は、山下らの意向がフラー社に伝えられなかった理由を幾つか挙げておられるが、第一に挙げているのはやはりお金の問題である。桜井がニューヨークに赴く時点で既に予算を大幅に超過していたことに加え、当時の経済状況も大きく影響したようである。三菱地所社史には以下のような記述があるそうである。

「桜井らがニューヨークに到着してまもなく、大正9年3月の第一次世界大戦後の株式大暴落があり、(中略)桜井は丸ビル計画も中止になってはいけないので、早く注文してしまわなくてはと思った。」

建物の安全性は力学で決まるかというと、そうでもないことが多いようだ。東日本大震災で事故を起こした福島第一原子力発電所についても、その歴史を振り返ると、丸ビルなどと似た状況を経験していることが分かる。

福島第一原子力発電所の歴史については、2011年の9月にNHKで放送された「ETV特集 原発事故への道程」で詳しく紹介されていた。詳細についての記憶は曖昧となってしまったが、「ターンキー契約」という言葉は印象深く記憶に残っている。

ターンキー契約とは、原発の運転が軌道に乗るまで、原発建設を受注した GE(ジェネラルエレクトリック)社側が、殆ど全てのことを一手に引き受けてやってくれるというもので、発注者側は運転開始のキーを回すだけでよいというものである。発注者側からすれば、ほぼ「丸投げ」である。

丸ビルの時と同じように、ここでも経済性と安全性のせめぎ合い、彼我の技術力の差といった状況が存在したようである。安全性については、初めは慎重論が大勢を占めていたらしいが、次第にそれも薄れていったそうである。

歴史に「もし」というのは禁句であるが、もしこのターンキー契約でなかったら、あのような大事故を起こさなくて済んだのではと思ってしまう。例えば、福島第一原発のある場所は、元は海抜35メートルの台地であったのを10メートルの高さまで削り取っている。35メートルあれば、津波も届かなかっただろう。このようなことをした理由の一つとして、冷却水の揚水ポンプが35mの高さまで水を汲み上げられなかったということがある。揚水ポンプの交換はターンキー契約に含まれないので、特注するとそれだけ費用が上乗せされてしまうのである。

もう一つは、非常用電源の位置である。驚くべきことだが(いや、このようなことを後から言うのは簡単だが)、非常用電源が海側に位置するように計画され、そのまま設置されてしまっている。これもターンキー契約でなければ、もっと熟慮の機会はあったと思うのだ。

もちろん、以上は結果論である。台地を削ったのは、岩盤に炉を設置して耐震性を高める意図もあったし、実績の無いポンプを使って故障したらどうするのだ、という考えだってあるだろう。ただ言えるのは、上記のようなジャッジがなされ、それが良い結果をもたらさなかったということである。当時の電力供給能力の問題などもあったのだろうが、原子力技術や安全性の評価などが自前のものとなるのを待たずに事を急いでしまった感が否めない。

内藤の「日本の耐震建築とともに」の「オリジナリティーと建築」という節には、外国からの技術導入よりも自前の基礎研究を尊重すべきであるとした以下のような文がある。

「建築以外の製造工業において、よく外国から特許を買ってくる。私はこれだけの金を何年か前に研究に支出しておくべきだったと言いたい。自分らが研究して作り上げたものはそれから次々と新しい芽を出して発展向上していくが、買ってきた特許は古くなれば、また次のを買ってこなければならない。これではいわゆる独自の発展は望めない。」

「研究費という肥料からさまざまの"オリジナリティー"が生れて立派に成果が挙げられる。私は方々の工場が新しい外国のパテントを輸入し、それを誇りとするという傾向が今なお存在するのを誠に遺憾に思う。自らの力をもっと発展さすべく努力すべきで、それだけの十分の自負心を持って欲しい。また今日、今日の採算でなく遠い将来に目をつけて、多くの研究費を出して事業の基礎を養っておくべきではないだろうか。」

今回の話の文脈とは少し異なるが、内藤の思想というか気概のようなものが知れる記述なので、ついでに示しておきたい。

スポンサーサイト

トラックバックURL
http://ksmknd16.blog.fc2.com/tb.php/74-536eb0e1
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top